るらしい。その癖、あまり自動的ではない自分がとに角、腰を落ちつけていられなくなるところを見ると、その不安はよほど自分にとって恐ろしいものに相違ない。尤も空想や幻想が頭の中に簇《むら》がり起っている場合、若しくは強烈な官能の悦楽に耽っている場合などはそれを忘れてはいるが、まったくそれ等のものを奪われるか、失うかしてしまった時の自分は必ず激しい焦躁と倦怠とに苛まれて、何処かに動き出さずにはいられなくなるのである。そんな時、忽然として目の前に蜃気楼か、キネマでも現われてくれたなら一時的に救われるようなことにならないとも限らない。だがそんな註文の不可能なことはわかりきッた話である。
金があって道楽に名所旧蹟でも見物して歩くなどという旅行とはまるで雲泥の差である。ただ滅茶苦茶に眼先が変わりさえすればいい。だから歩く処は全然見ず知らずの土地に限る。都会の中でもかまわない。一度も歩いたことのない町や路地を、ウロウロしてさえ一寸フレッシュな気持にさせられる時がある。疲《くた》びれたら休む、腹が空いたら食う、まったくの行き当りバッタリでなければ浮浪の法悦は味わえない。いわば、「身軽片片溪雲影。心朗瑩瑩
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