殊勝な心持にもさせられるのである。
無目的にまったく漂々乎として歩いていると自分がいつの間にか風や水や草や、その他の自然の物象と同化して自分の存在がともすれば怪しくなって来ることはさして珍しいことではない。自分の存在が怪しくなってくる位だから、世間や社会の存在はそれ以前に何処かへ消し飛んでいる。そんな時に、どうかすると「浮浪人の法悦」というようなものを感じさせられる。が、その時は無論、そんなことさえ全然無我夢中である。こうやって、原稿紙という紙の上になにか書きつけようとする時に、やっとその時の心持を思い浮かべて、そんな言葉ででもその時の心持を表わしたらと考えるに過ぎない。
物を書こうという気の起る時には、もう既に自分は甚だしい束縛の囚人である。少なくともそういう意識の下で自分は物を書くのである。だから、書いたり、饒舌《しゃべ》ったりした後ではキット余計な無駄なことをしたように感じる時が多いのだ。従って自分の霊魂はあまり物を書くことを欲してはいないのらしい。それにも拘らず、自分はこれまでに、またこれからも幾度となく物を書くという動作をやるだろう。
浮浪の衝動は静止の不安から起ってく
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