山月光。馬麥因縁支命足」というような境地にならなければ駄目らしい。そして、更に「大千沙界一筒自由身」になり「無底併呑尽十方」になれば申し分がないのであろう。
 「酔生夢死」という言葉がある。僕はこの言葉が大好きである。願わくば刻々念々を酔生夢死の境地をもって始終したい。又「浮遊不知所求。猖狂不知所往」の如きは自分のようなボヘエムにとっては繰り返せば繰り返す程、懐かしみの増して来る言葉である。「酔生夢死」は自分のようなヤクザ者には至極嬉しい言葉である。ところが、実際、却々[#底本「劫々」。『選集』で「なかなか」となって居るのに合せて訂正]それが出来かねるのである。人生そのものに酔っていられるなら、なにもわざわざ酒や阿片の御厄介にならなくてもすみそうなものだ、夢死が出来れば。死の恐怖に襲われる憂いもあるまい。ボオドレエルの詩に「いつでも酔払っていろ。その他のことはどうだっていい、これこそ唯一の問題だ」というのがある。自分はそれを読んだ時に、彼も亦「酔生夢死」の讃美者だなと独りできめたことだ。そして、本人はそれが思うように出来なかった苦しまぎれにあんな詩を作ったにちがいない。たとえ日常生活そのもの、つまり働くことに酔えないまでも、せめて異性になり、酒になり、なんになり、夢中に酔払うことになったら、さぞや幸福なことであろう。僕の周囲には社会運動に酔払っている元気のいい人達が沢山にいる。たとえ必要に迫られて「止むに止まれない」心持からでも、そういう運動に酔うことの出来る人は羨望に価すると思う。更に「大本教」なぞに酔うことが出来たら、益々幸福だろうと思う。
 「酔生夢死」は屡々軽侮の意をもって僕のようなヤクザ者の形容詞に用いられてきた。「国に奉仕し」「社会に貢献し」「人類の愛に目ざめ」「意義ある生活を送り」(等)――というような言葉の正反対が、どうやら「酔生夢死」にあたるらしい。
 少なくとも、自分はこの世の中に自分の意志で生まれでた[#底本「生まれてた」を「生まれでた」に訂正]のではないらしい。いくら考えて見てもそうは思われない。しかし、又父母の意志によって生まれてきたものとも思われない。父母は子供を欲しいと思ったかも知れない。しかし、生むにしても自分のようなヤクザ者をわざわざ生みつけようとは思わなかったにちがいない。仏教の説くように、因縁ずくで諦めがつけば世話はないが、僕の
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