殊勝な心持にもさせられるのである。
 無目的にまったく漂々乎として歩いていると自分がいつの間にか風や水や草や、その他の自然の物象と同化して自分の存在がともすれば怪しくなって来ることはさして珍しいことではない。自分の存在が怪しくなってくる位だから、世間や社会の存在はそれ以前に何処かへ消し飛んでいる。そんな時に、どうかすると「浮浪人の法悦」というようなものを感じさせられる。が、その時は無論、そんなことさえ全然無我夢中である。こうやって、原稿紙という紙の上になにか書きつけようとする時に、やっとその時の心持を思い浮かべて、そんな言葉ででもその時の心持を表わしたらと考えるに過ぎない。
 物を書こうという気の起る時には、もう既に自分は甚だしい束縛の囚人である。少なくともそういう意識の下で自分は物を書くのである。だから、書いたり、饒舌《しゃべ》ったりした後ではキット余計な無駄なことをしたように感じる時が多いのだ。従って自分の霊魂はあまり物を書くことを欲してはいないのらしい。それにも拘らず、自分はこれまでに、またこれからも幾度となく物を書くという動作をやるだろう。
 浮浪の衝動は静止の不安から起ってくるらしい。その癖、あまり自動的ではない自分がとに角、腰を落ちつけていられなくなるところを見ると、その不安はよほど自分にとって恐ろしいものに相違ない。尤も空想や幻想が頭の中に簇《むら》がり起っている場合、若しくは強烈な官能の悦楽に耽っている場合などはそれを忘れてはいるが、まったくそれ等のものを奪われるか、失うかしてしまった時の自分は必ず激しい焦躁と倦怠とに苛まれて、何処かに動き出さずにはいられなくなるのである。そんな時、忽然として目の前に蜃気楼か、キネマでも現われてくれたなら一時的に救われるようなことにならないとも限らない。だがそんな註文の不可能なことはわかりきッた話である。
 金があって道楽に名所旧蹟でも見物して歩くなどという旅行とはまるで雲泥の差である。ただ滅茶苦茶に眼先が変わりさえすればいい。だから歩く処は全然見ず知らずの土地に限る。都会の中でもかまわない。一度も歩いたことのない町や路地を、ウロウロしてさえ一寸フレッシュな気持にさせられる時がある。疲《くた》びれたら休む、腹が空いたら食う、まったくの行き当りバッタリでなければ浮浪の法悦は味わえない。いわば、「身軽片片溪雲影。心朗瑩瑩
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