浮浪漫語
辻潤
自分はなによりもまず無精者だ。面倒くさがりやである。常に「無為無作」を夢みている。従ってこれまで自分で進んで自分を表現(文字をかりて)しようとしたことは殆どないといってもいい。まったく今の世の生活には不適当に出来あがっている人間であることを泌々と感じさせられる。よしまた自分を表現しようという欲望が偶々起って来たところで、それは到底、今の社会制度の下では許されそうもないことばかりだ。つまり、今の世の中、少なくとも自分の生活している世の中には言論の自由がないようだ。そう思うと、自分はスグと厭気がさしてくる。それに無理にもそれをシャベらなければならないという程のパッションが起って来ないから、そのまま抑え付けて黙ってしまったことになる。同じ人間でありながら、御相互に思っていることを充分いうことさえ出来ないとはなんという窮屈な世の中だろう。近頃ではあまりいわれないようだが、しとしきり[#「しとしきり」に傍点]「危険思想」という言葉が大分流行した。自分には今もってその言葉のわけがよく呑み込めないでいる。そして、自分の低能を自ら憐れんでいる。
僕は時々出来るなら、国籍をぬいてもらいたいものだと思うことがある。つまり、何処の国の人間にもなりたくないのだ。自分以外になん等のオーソリティなしに暮らしたいのだ。色々な責任から脱却したいのだ――随分、虫の好い考えかも知れない。まずそれが出来るのは乞食か浮浪人になるより仕方がないらしい。だが、聴くところによると、乞食にも色々な集団があって、繩張を争うようなことがあるそうだ。こうなると、無人島へでも一人で移住するより仕方がなくなるかも知れない。そして無人島で「無為無作」を続けることになると、その当然の結果として、餓死してしまうだろう。
だから、自分の生活は俗にいう不徹底極まりない生活である。しかし、考えると所謂徹底ということにどれ程の価値があるかそれさえ自分にはわからない程、自分はグラグラしているのだ。まことにフヤケたダラシのない生き方である。意気地なしの骨頂である。僕のような代物が若し今の労農露西亜に生まれていたとするなら、とうに打ち殺されているにちがいない。それを思うと現代のありがた味をつくずくと眼の醒めたように感じさせられるのである。そして、少しばかり自分の想っていることのいえない位は我慢しなければならないという
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