惰眠洞妄語
辻潤
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)堯舜《ぎょうしゅん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+無」、第3水準1−86−12]
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今のような世の中に生きているというだけで――それだけ考えてみたばかりでも私達は既に値打づけられてしまっているように感じることがある。
昔、堯舜《ぎょうしゅん》の時代というようなそんなものがあったか、なかったか、又この先きユウトピヤとか、ミロクの[#「ミロクの」は底本では「ミクロの」]世の中とかいうものが来るか来ないか、そんなことを何遍繰返して考えてみたところで、私は少くとも今日一日の生命を生きてゆかなければならないことだけは事実だ。現実肯定だ。それ以外に名案は浮んでは来ない。
私にとっては現実を肯定するということは厚顔無恥に生きるということの別名に過ぎない。――厚顔無恥も度々繰返している間には無邪気に思われるようにさえなって来る。
私は自分が厚顔無恥であるということを時々意識することによって、自分に不愉快を感じさせられる。――従って私は鏡にうつる自分の姿を見ることをあまり好まない。
自分はまだ修業が足りないのだ――と思う。しかし、やがて自分はこんなことすら意識しなくなる時が来るのではあるまいか、とひそかにその時期の到来を期待しているのだ。
私は電車に乗る時の自分の姿をアリアリと思い浮べる。私は人が自家用の自動車を持たなければならないと思う方があまりにも当然だと考える。それが果してブルジョア意識というものなのだろうか?
芸術は玩具だ。少くとも書物は私にとってはなくてはならない玩具の一種だ。私は自分の好きなおもちゃを宛がってさえ置いてもらえば、かなりおとなしく遊んでいる。
私は自分の生活のために時々自分でおもちゃを拵らえて売る。ゆっくり、楽しんで自分の気の合ったようなおもちゃばかりを拵えてみたいが、そうはゆかぬ。しかし不出来な、気に喰わないものでも買ってくれる人があるので、私はどうやら暮してゆかれるのだが――貧しいおもちゃ製造人。
時々目先の変った新型のおもちゃを拵えないと、私はどうやら暮しが立たなくなる恐れがある。私のおもちゃをお買い下さ
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