い――。
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おもちゃは腹の足しにはならない。そんなものはゼイタク品だ。一切のおもちゃを破壊せよ!――腹の空いた人間の理窟としては無理もない。だが私のような発育未熟の永遠の赤ん坊は少し位腹が減っていても自分の好きなおもちゃがあるとそれでかなりまぎれている。
おもちゃを持って遊ぶことの出来ない人間は不幸なものだ。
おもちゃの好きなものは当然おもちゃに対する鑑賞眼が肥えて来る。金さえ出せばいいおもちゃが買えるというわけのものではない。いくら金があってもおもちゃのよしあしのわからない人間もいる。――莫大な金を出してつまらぬおもちゃを買う者もいる。自分で好みもせぬのに、人に見せびらかすためにやたらと買う者もいる。
おもちゃのほんとうに好きな人間は自分で自分のおもちゃを撰択する。時代と流行と人気とは彼になんの関りもないのである。
私は自分が拵えて、自分が楽しむことの出来ないような玩具はなるべく拵らえたくないと思っている。
いつまでいじくっていても少しも見倦《みあ》きのしないようなものを拵えたいと思っている。
人のこしらえた物が気に喰わなければ自分で気に喰う物を造るより他に仕方がない。
私は人のおもちゃの世話を焼くことにあまり興味を感じない。しかしいいおもちゃが眼に付けばそれを手に入れて遊ぶばかりだ。
人の趣味は千差万別だから、この世には色々なおもちゃの存在理由があるわけだ。
宮沢賢治という人は何処の人だか、年がいくつなのだか、なにをしている人なのだか私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』という詩集を手にした。
近頃珍しい詩集だ。――私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが――私の鑑賞眼の程度は、若し諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ぐにわかる筈だ。
私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでいる――しかし、本物とニセ物の区別位は出来る自信はある。
私は今この詩集から沢山のコーテェションをやりたい慾望があるが――。
わたしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)――というのが序の始まりの文句なのだが、この詩人はまったく特異な個性の持主だ。芸術は独創性の異名で、その他は模倣から成り立つものだが、情緒や、感覚の新鮮さが失なわれていたのでは話に
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