かってきた。今迄、自分の考え惑うてきたことが一々手にとるようにハッキリと説明されている。「なる程」と思うような気持はこの本を読んでいる間に幾度となく味わされた。そしてやっと自分が安心することが出来るような気持になって来た。「自己」という物の本体をハッキリ自覚させられたのである。この自覚を一切の人間が出発点にすれば、一番まちがいないのだということがよく呑み込めた[#「呑み込めた」は底本では「呑め込めた」]。
 スチルネルを読んでから、自分は哲学の本を今迄とはまるでちがった態度で読むようになった。つまり他の文学的作品と同じに見るようになった、ロオマンスを読むと同じ気持で読むようになったのである。これより以前聖書はもう自分にとっては一種の古いロオマンスのようなものであると思われていたが、哲学の本にはまだなにか其処に優れた特別な認識によって「真理」というような手品の種が隠されているかの如く思いこんでいたのだが――その迷夢が一朝にして覚まされたわけである。
 通常スチルネルを攻撃する人は、スチルネルが一切の偶像を破壊した後に、遂に「自我」という「偶像」を立てたといって非難する。なる程、そういえば
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