そうだといえるかも知れない。しかし彼は自分の説く「自我」をフィヒテ等の所謂「超絶的自我」或は又仏教徒などのよく口癖にする「大我」というようなものから、ハッキリ区別して、各個人の内に時々刻々動いている「血肉のこの刹那的自我」だというように断っているところを見ると、それは一定不変なものではなく、よし、それを「偶像」に祭りあげたところで、各人はその内容を各自の勝手放題に変化してゆくことが出来るのだから、一向邪魔にはならない「偶像」である。それにスチルネルは人間が好んで偶像を造り出すことに別段反対はしてはいない。要は、その「偶像」を創造者であるかの如く思い込むことを戒めているのである。主客顛倒を警告しているのである。
 彼の教義――教義哲学でも、理屈でもなんでもかまわない――は又一名幻滅の哲学だということが出来るかも知れない。なぜかというと、自己以外の一切の価値を認めないことになるからである。――そして自己の存在だけを肯定するのである。しかし、自己以外の存在の価値を一切否定するというのはいいかえれば、やはり幻滅である。自己以外に何物をも求めないのである。一切が自分の価値判断から生ずる極端な主観
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