哲学や芸術が不必要だというような考えは、生きる上にタバコや酒が不必要だという説と少しもちがいはないのである。必要[#「必要」は底本では「心要」]、不必要を論じて極端に行けば人間が生きていることそのことが不必要であるとさえいえる。われわれはなんのために生きているのか、国家のためか、両親のためか、愛する女のためにか、無産階級解放のためか、芸術のためか、酒のためか、資本家のためか――生きる対象は無数に存在する。しかし、決して自分一人のわがままのためには生きてはならないのである。
私は今、これを古谷栄一君のために書いているのである。氏の著作が一人でも多くの人々に読まれることを希望して書いているのである。私は一人の友達のために、友達を愛するがためにこれを書いているのである。
しかし、果してそれが古谷氏のためになるかどうか私は確信は出来ないのである。偶々私の如き者がランタアンを持つためにかえって古谷氏の真価をその結果において傷つけることになるかも知れないのである。
とに角、私がこれを書いたことは古谷式にいえば劫初から定められた一つの惰性である。古谷氏が書かせたものでも、私が書いたのでもない…
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