現に過ぎない。それゆえ、個人はそのまま全宇宙である。
私は今、徒らに古谷栄一氏のパアロットになっているのではない。私はすでに十余年前から仏教の実在観に降伏してしまっている人間なのである。そうして古谷君の旧著『オイケン哲学の批難』なる著書は、私の十年来の愛読書の一ツなのである。
私は古谷栄一氏の著書に対して非常な興味をもっていたが、更にその人物に対して更にそれ以上の好奇心を抱いていた。しかし、氏の十余年以上の沈黙は私をしてしばしばかれの存在をさえ疑わしめたのであった。
しかし、偶然は私をして遂に氏との親交を結ばしめた。氏は拮据《きっきょ》十余年かれの仕事に没頭して、千数百枚にのぼる『循環論証の哲理』と、約六百余枚にわたる『錯覚自我説』と更に驚くべき創作とを完成させていたことを知ったのである。
私は形而上学の学徒でもなければ、マルクスの信奉者でもない。哲学史をすら通読したことさえない人間である。しかし、古谷君の『オイケン哲学の批難』なる書物は何ゆえか私を非常に魅惑せしめて数回反復熟読せしめた。かれは一面すばらしき詩人でもある。決して単なる形式論理的、講壇的、乾燥無味的哲学者ではない
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