があったらしいと書いた新聞を僕は見た。
僕はその記者をよほどの心理学者だと思ったりした。
野枝さんは僕と約六年たらず生活して二人の子を生んだ。だから新聞では僕のことを「野枝の先夫」だとか「亭主」だとか書くが、如何にもそれに相違なかろう。だが、僕のレエゾン・デエトルが野枝さんの先夫でのみあるような、またあたかも僕がこの人生に生まれてきたことは伊藤野枝なる女によって有名になり、その女からふら[#「ふら」に傍点]れることを天職としてひきさがるようなことをいわれると、僕だとて時に癪にさわることがある。
癪にさわるといえば、往来を歩いている人間のツラでさえ障らないのはまずまれである。それを一々気にしていたら、一生癪にさわることを天職にして暮らさなければならなくなるだろう。感情の満足を徹底すれば、殺すか殺されることか、――それ以外に出る場合は恐らく少ないであろう。
だから僕などはダダイストにいつの間にかなって癪にさわるひまがあれば、好きな本の一頁でもよけいに読むか、うまい酒の一杯でもよけいに呑む心掛けをしているのだ、なんと素晴らしくも便利な心掛けではあるまいか。僕の思想や感情の出発点に対し
前へ
次へ
全40ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
辻 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング