十版を重ねて愛読されていることを考えると僕もいささか心が慰められる。
 ある時、私の翻訳中のテキスト――即ち英訳の“Man of Genius”を本郷の郁文堂に預けて落語を聴きに行ったことがあった。その時、僕は本箱も蔵書も殆ど売り尽して僅かに辞書一、二冊とそのホンヤク中のテキストを[#「テキストを」は底本では「テストを」]座右において暮らしていた時なので、それ程困っていながら、なぜ落語などを聴きに行きたがったのか?
 染井の森から御苦労になけなしの金をこしらえて神田の立花亭のヒル席に出かけたものだ。
 馬楽と、焉馬と、小せんの三人会があったのだ。この三人はその後、吉井勇氏によってはなはだ有名になったが、その中のエン馬のみが存在して、後の二人は過去の人となってしまった。その時が馬楽のフィナーレだったのだ。エン馬といってはわからない人があるかも知れないが、今の金原亭馬生その人が即ち当時のエン馬だったのである。その時聴いた「あくび」と「伊勢屋」と「まわし」は今でもハッキリと記憶に浮かんでくる。ひと工面をして出かけただけの甲斐があった。またそれだけ身を入れて聴いたのでもあったろう。
 ながい間
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