才能を充分にエジュケートするためなのであった。それはかりにも教師と名がついた職業に従事していた僕にその位な心掛けはあるのが当然なはずである。で、それが出来れば僕が生活を棒にふったことはあまり無意義にはならないことだなどと、はなはだおめでたい[#「おめでたい」に傍点]考えを漠然と抱いていたのだ。
 キリスト教とソシアリズムを一応パスして当時ショウペンハウエルと仏蘭西のデカダン詩人とに影響せられていた僕は、自然派の人の中では泡鳴が一番好きでスバルの連中が一番自分に近いような気がしていた。しかしその連中の誰をもパアソナリティには知らなかった。
 僕の友達で文学をやっている人間は一人もなかった。勿論当時の大家には全然知己もなく、早稲田派でも赤門派でもなんでもない僕は直接にも間接にも文士らしい人物は一人も知らなかった。自分はひそかに尊敬していた人もあったが、その人に手紙を出したこともなく、訪問をしようとする気も起こらなかった。
 大杉君が「近代思想」を始め、平塚らいてう氏が「青鞜」をやっていた。僕は新聞の記事によってらいてう氏にインテレストを持ち、「青鞜」を読んで頼もしく思った。
 野枝さんにすすめてらいてう[#「らいてう」に傍点]氏を訪問させてみることを考えた。
 社会主義が高等不良少年の集団なら、高等不良少女の集団は「青鞜」であった。少なくとも世間の色眼鏡にはそう映じたに相違ない。自然主義、デカダン、ニヒリズム――すべて舶来の近代思想などいうものにロクなものはない。しかし、日本固有の思想は全体どんなものか知らないが、泡鳴流の説なら僕も泡鳴が好きだったから賛成してやってもいいが、およそ思想などというようなものはみんな舶来のような気がしてならない。印度や支那の思想を日本から引き抜いたら、果たしてどんなものが残るのだろう。しかし、およそ思想といったって特別それが珍重されるべきものでなく、同じ人間の頭から生まれてきたのだから、早い晩《おそ》いを論じて優劣などを争うのは馬鹿気ている。いくら借り物だろうが、よければ少しも恥ずかしがらずどしどし[#「どしどし」に傍点]と自分のものにして利用したらばいいのだ。なにも遠慮することはいらない。滑稽なのは昔借りた物を如何にも祖先伝来であるかの如き顔をして、臆面もなく振りまわしている馬鹿がいることだ。そしてそれより遙かにすぐれて進んだ物を見せつけられてもそれを借りることを恥辱であるかの如く、またなにか恐ろしく危険でもあるかの如く考えている。自分には祖先伝来の二本の足があるから、危険な電車や自動車には乗らないといって威張っているのと少しも変わりはありはしない。電気にしろ機械にしろ薬品にしろ、みんな危険といえば危険でないものは一つもない。だが、それに対する精確[#「精確」に傍点]な知識と取り扱い方を知っていさえすれば、少しも危険でもなんでもないだろうじゃないか?
 野枝さんはらいてう氏の同情と理解によって、「青鞜」社員になって働いた。僕も時々らいてう氏を尋ねるようになった。そうして随分と厄介をかけたようだ。それから当時社内の「おばさん」といわれていた保持白雨氏、小林の可津ちゃん、荒木の郁さん、紅吉などという連中とも知り合った。「新しい女」は、吉原へおいらんを買いに行き五色の酒を呑んで怪気焔を吐き、同性恋愛の争奪をやり、若き燕を至るところで拵えるというような評判によってのみ世間へ紹介された。自然主義が出歯亀によって代表されたのと少しも変わりはなかったのである。だが、昔キリスト教が魔法使いと誤られて虐殺されたことを考えると、そんなことはなんでもないことなのかも知れぬ。近い話が大杉君だが、今でも社会主義といえばやたらと巡査とケンカをしたり、金持ちをユスッテ歩く壮士かゴロツキの類だと考えている連中がいるのだから助からない。中には社会主義だと称してそんなことばかりやって歩いている人間もあるのかも知れないが、それよりも堂々ともっともらしい大看板を掲げてヒドイことをやっている奴が腐る程あるのではないか。金さえ出せば大ベラボーの売薬の広告をでさえ第一流の新聞が掲載する世の中なのだ。
 僕の文壇へのデビューは『天才論』の翻訳だったが、『天才論』は御承知の通り文学書ではない。ただその書物が面白かったので教師をやっている間に少しばかり訳しておいたのだが、それをとりあえずまとめて金に換えようとしたのであった。
 僅か今から十年も前だが、その頃のことを考えてみると、文芸がたしかに一般的になったものだ。民衆化されたとでもいうのか。当時の出版屋がロンブロゾオの名前を知らなかったのも無理はない。僕のそのホンヤク書の出版が如何に困難なものであったか、如何にバカ気た努力をそのために費やしたかは序文にもちょっと書いておいた通りだが、今でもあの本が数
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