っている。だから満足に赤門式な教育を受けていたら今頃は至極ボンクラなプロフェッサアかなにかになっていたのかも知れない。だが、through thick and thin のお蔭で、そんな者にはならずにすんだのだ。そのかわりかなり我儘な人間に生きてきた。
 十九から私塾の教師に雇われて、二十に小学校の専科教師になって幾年か暮らしている間に、僕の青春は乾涸びかけてしまった。二十三や四でもう先の年功加俸だのなにかの計算をして暮らしているような馬鹿の仲間入りをしていたら、人間もたいていやりきれたものではない。いくらか気持ちののびのびした私立女学校へやってきたが、一年とは続かずとうとう野枝さんというはなはだ土臭い襟アカ娘のためにいわゆる生活を棒にふってしまったのだ。
 無謀といえば随分無謀な話だ。しかしこの辺がいい足の洗い時だと考えたのだ。それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などというものをやったことはなかったのだ。そうして自分の年齢を考えてみた。三十歳に手が届きそうになっていた。
 一切が意識的であった。愚劣で単調なケチケチした環境に永らく圧迫されて圧結していた感情が、時を得て一時に爆発したに過ぎなかったのだ。自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味わおうとしたのであった。それには洗練された都会育ちの下町娘よりも熊襲の血脈をひいている九州の野性的な女の方が遙かに好適であった。
 僕はその頃染井に住んでいた。僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。だから今でもそこにオヤジの墓地がある。森の中の崖の上の見晴らしのいい家であった。田圃には家が殆どなかった。あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだったが今は駄目だ。日暮里も僕がいた十七、八の頃はなかなかよかったものだ。すべてもう駄目になってしまった。全体、誰がそんな風にしてしまったのか、なぜそんな風になってしまったのか? 僕は東京の郊外のことをちょっと話しているのだ。染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。
 結婚は恋愛の墓場――旧い文句だがいかにもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調において男女相抱いて死することあるのみ。グズグズと生きて、子供など生まれたら勿論それはザッツオールだ。だが人間よほど幸運に生まれない限り、一生の中にそんな恋愛をすることはまれだ。はなはだしきは恋愛のレの字も知らずに死ぬ劣等人種の方が世間にはザラ[#「ザラ」に傍点]だ。
 僕は幸いにして今なお恋愛を続けている。恐らくこの恋愛は僕の生きている限り続くであろう。野枝さんの場合におけるが如き蕪雑にして不自然なものではなく、僕の思想や感情がようやく円熟しかけてきてからの恋愛なのだから、遙かに高貴でもあり純一でもある。そればかりか僕は更に若くして豊満なる肉体の所有者から愛せられている。彼女は僕のために一生を犠牲に供する覚悟でいる。それを考えると、僕は無一物の放浪児ではあるが一面なかなかの幸運児でもあるのである。故に僕は、進んで一代の風雲児をあまり羨望しようとはしないのだ。腹が減っては恋愛も一向ふるわなくなる。パンと酒なければ恋また冷やかなり羅馬のホラチウスは多分いったはずだが、金の切れ目が縁の切れ目なることはあにただに売女にのみ限ったものではない。
 無産者の教師が学校をやめたらスグト食えなくなる。教師をしていてさえ、母子三人ではあまり贅沢な生活どころか、普通のくらしだって出来はしない。だから僕は内職に夜学を教えたり、家庭教師に雇われたりしていた。――ほんの僅かの銭のために!
 僕は子供の時から文学は好きだった。しかし文学者として立つ才能を所有しているというような自信は薬にしたくも持ち合わせてはいなかった。のみならず文学は職業とすべきものではないと考えていたから、僕はそれを単に自分の道楽の如く見なしていたのである。しかしまた道楽によって生活することがもし出来たとすれば、これ程結構なことはないと考えてもいた。
 とりあえず手近な翻訳から始めて、暗中模索的に文学によって飯を食う方法を講じようとしてみた。当時の文学に対する知識は充分あったが、文壇に対するそれは全然ゼロであった。
 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやめるためではなく、彼女の持っている
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