十版を重ねて愛読されていることを考えると僕もいささか心が慰められる。
ある時、私の翻訳中のテキスト――即ち英訳の“Man of Genius”を本郷の郁文堂に預けて落語を聴きに行ったことがあった。その時、僕は本箱も蔵書も殆ど売り尽して僅かに辞書一、二冊とそのホンヤク中のテキストを[#「テキストを」は底本では「テストを」]座右において暮らしていた時なので、それ程困っていながら、なぜ落語などを聴きに行きたがったのか?
染井の森から御苦労になけなしの金をこしらえて神田の立花亭のヒル席に出かけたものだ。
馬楽と、焉馬と、小せんの三人会があったのだ。この三人はその後、吉井勇氏によってはなはだ有名になったが、その中のエン馬のみが存在して、後の二人は過去の人となってしまった。その時が馬楽のフィナーレだったのだ。エン馬といってはわからない人があるかも知れないが、今の金原亭馬生その人が即ち当時のエン馬だったのである。その時聴いた「あくび」と「伊勢屋」と「まわし」は今でもハッキリと記憶に浮かんでくる。ひと工面をして出かけただけの甲斐があった。またそれだけ身を入れて聴いたのでもあったろう。
ながい間、それから色々な安ホンヤクをやっては暮らした。泡鳴の仕事の手伝いなどもやった。どうして暮らしてきたか今でも不思議な位なのである。
野枝さんはそのうち「動揺」というながい小説を書いて有名になった。僕の長男が彼女のお腹にいる時、木村荘太とのイキサツを書いたもので、荘太君はその時「索引[#「牽引」と思われるが、底本の通りにする]」というやはりながい小説を書いた。荘太君のその時の鼻息はすばらしいもので、その中で僕は頭から軽蔑されているのだ。僕はその時も野枝さんの気持ちを尊重して別れてもいいといったのだが、野枝さんがイヤだというのでやめにしたのである。
染井からあまり遠くない滝の川の中里というところに、福田英子というおばさんが住んでいた。昔大井憲太郎と云々のあった人で、自分も昔の「新しい女」だというところから「青鞜」に好意を持っていたらしかった。ちょうどその時分、仏蘭西で勉強して日本の社会問題を研究にきたとか称する支那人が、英子さんを通じて日本の新しい婦人運動者に遇いたいというので会見を申し込んできたので、一日その中里の福田英子さんのところで遇うことにした。日本語がよく解らないので英語のわかる人を連れてきてくれる方が都合がよいというので、僕が一緒に行くことになった。
僕はその時、初めて渡辺政太郎氏に会ったのである。渡辺君は今は故人だが、例の伊豆の山中で凍死した久板君などと親友で、旧い社会主義者の間にあってはかなり人望のあった人であった。渡辺君は死ぬ前には「白山聖人」などといわれた位な人格者であったが、僕はその時から非常に仲がよくなった。
渡辺君はその時分、思想の上では急進的なつまりアナキストであるらしかった。僕は渡辺君が何主義者であるかそんなことは問題ではなかった。僕は渡辺君が好きで、渡辺君を尊敬していた。
その後大杉君を僕らに紹介したのもやはりその渡辺君であった。
渡辺君は、僕の子供を僕ら以上の愛を持って可愛がってくれた。僕の親愛なるまこと[#「まこと」に傍点]君は今でもそれを明らかに記憶してその叔父さんをなつかしんでいるのである。
『或る百姓の家』の著者江渡狄嶺君を僕に紹介してくれたのもその渡辺君であった。
狄嶺氏とはしばらく音信消息を断絶しているが、僕は江渡君のような人が存在していることをひそかに心強く感じているのである。僕が氏を信じている如く、氏もまた必ず僕のことを信じていてくれることと自分は堅く信じている。僕は時々ひどくミサントロープになるが、そういう時は必ず僕は江渡君や渡辺君のことを思い出すのである。
野枝さんはそのうちゴルドマンの『婦人解放の悲劇』その他の論文をホンヤクしてひどくゴルドマンの思想に影響されて、やがて自分から日本のゴルドマンたらんとする程の熱情を示してきた。大杉君との間に生まれたエマちゃんは、即ちゴルドマンのエマからしかく名づけられたものである。
平塚らいてう氏がエレンケイならば、野枝さんはゴルドマンである。
野枝さんが「青鞜」を一人で編輯することになって、僕は小石川の指ケ谷町に住んでいた。
野枝さんは至極有名になって、僕は一向ふるわない生活をして、碌々と暮らしていた。殊に中村孤月君などという「新しい女の箱屋」とまでいわれた位に野枝さんを崇拝する人さえ出てきた。
野枝さんのような天才が僕のような男と同棲して、その天分を充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような世論がいつの間にか僕らの周囲に出来あがっていた。
その頃みんな人は成長したがっていた。「あの人はかなり成長した」とか、「私は成長
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