するために沈潜する」とか妙な言葉が流行していた。
野枝さんはメキメキと成長してきた。
僕とわかれるべき雰囲気が充分形造られていたのだ。そこへ大杉君が現われてきた。一代の風雲児が現われてきた。とてもたまったものではない。
先日「中央公論」をちょっと見たら春夫が僕を引き合いに出していた。ラフォルグかなにかの短篇の一節を訳して僕がきかせた時の気持ちを想像して書いたのだが、あれはたしかに記憶にある。聡明な春夫の御推察通りであるが、あの大杉君の『死灰の中より』はたしかに僕をして大杉君に対するそれ以前の気持ちを変化させたものであった。あの中では、たしかに大杉君は僕を頭から踏みつけている。充分な優越的自覚のもとに書いていることは一目瞭然である。それにも拘わらず僕はとかく引き合いに出される時は、大杉君を蔭でホメているように書かれる。だがそれは随分とイヤ味な話である。僕は別段改まって大杉君をホメたことはない。ただ悪くいわなかった位な程度である。僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。それは、しかし世間に対するそれだけではなく、僕自身に対してのみのそれである。自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している、自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ。世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。
同棲してから約六年、僕らの結婚生活ははなはだ弛緩していた。加うるに僕はわがままで無能でとても一家の主人たるだけの資格のない人間になってしまった。酒の味を次第に覚えた。野枝さんの従妹に惚れたりした。従妹は野枝さんが僕に対して冷淡だという理由から、僕に同情して僕の身のまわりの世話をしてくれた。野枝さんはその頃いつも外出して多忙であった。
しばしば別居の話が出た。僕とその従妹との間柄を野枝さんに感づかれて一悶着起こしたこともあった。野枝さんは早速それを小説に書いた。野枝さんは恐ろしいヤキモチ屋であった。
同棲数年の間、僕はただ一度外泊した事があるばかりであった、まるでいま思うと嘘のような話である。別れるまで殆どケンカ口論のようなことをやったこともなかった。がしかし、ただ一度、酒の瓶を彼女の額に投げつけたことがあった。更に僕は別れる一週間程前に僕を明白に欺いた事
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