やこどもでもいなかったら、とうにどこかで野晒《のざらし》になってしまっていたに相違ない。もっともその方がよほど気楽かもしれないがね。荘子という本の中に荘子とドクロとの問答がある。ドクロが荘子に向かって己れのたのしみは南面王にも真似は出来まいといって大気焔をあげている。どうかと思うがね。
 なんしろ字なんか書くって奴はいとも面倒くさいもんであるよ、みんなよくもまあながながとことや細かくつまんねえ屁理窟やつまらん男と女がどうしたとかこうしたとか、すべったとかひっくりかえったとか凡そベラボーでちんぷでなさけなくはては臍茶なもんやないかないか――だがみんな生きとしいけるものはおまんまというものをいただかなければならないのが、実に厄介センバンだよ。これにはシャッポだ。だから私は凡そおかねのない人達がどんなことをしようとやろうとたいていがまんしてむりもないなと考えながら傍かんしているんだ。
 わたしもなれたらアルセン・ルパンみたいになりたいが――所詮及ばぬ鯉のなんとやらで、指でもくわえてかんしんしているほか手がないのだ。了簡がケチ臭く肝ッ玉が山椒ツブみたいで力もなくしたがって御金もなく女の子にはい
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