ことになった。まったく棚ボタである。寝耳に水である。しかし、時節が到来して多年な宿望が達せられたわけだ――しかも自分のと名のつく金でだ――まったく人間万事|塞翁《さいおう》が馬であると、とりあえず喜んで見たのだがひるがえって考えると少からず「季節外れ」感があるのだ。
自分も今では立派な四十男なのだ。人間四十有余歳にもなれば、どんな阿呆でも、一通り世の中がわかり、娑婆の合点がゆく筈である。自分がどんな性情な持主であり、どれ程の才能があるか位は見当がつく筈だ。フランスへ行ったからといって、忽然《こつぜん》として生れかわるわけではない位なことは自分と雖《いえど》も万々承知はしているつもりである。
さて、私もひとりの文学者ではある、というよりもいつまでも幼稚な文学書生をもって自任しているのだ。私が今迄に全体どんなことをしたか、どの位な文学上の仕事をしたかと考えて見るとまったくお恥かしい次第なのである。だから私は御苦労にもヨーロッパくんだりまで出かけ、もう少し了見を改めて自分のダダ的精神に研《と》ぎをかけて見たいと考えているのだ。
私が日本の現在の文学をどんな風に考えているかということはし
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