え゛りと・え゛りたす
辻潤


 なんのためにフランスなぞへいくのか? 旅行免状にはちゃんと「文学研究」と書いてある。自分は文士だからフランスへ文学の研究に行くのだ―それ以上に私はあまり考えたくはないのだ。
 昔は「洋行」という言葉に恐ろしい価値があってまるで神様の「護符」でも戴くような気持のする時代もあった。猫も杓子《しゃくし》も洋行さえすれば肩で風を切って歩いてもさしつかえないという様な馬鹿気た時代もあった。今ではどうか? 洋行をするとかえって生れた国の時勢に遅れるような気がする位だ。
 自分は少年の時からハイカラでとかく西洋臭いことが好きだった。十五六の時分にはもう一人前のクリスチァンで、横文字の書物にばかり読み耽った。
 内村鑑三先生の「警世雑著」を愛読している時分、ひどく先生の影響を受けて米国のカレッジ熱に浮され、金の問題はそッちのけにしてしきりに入学試験の研究に耽った。昔から、自分の家と深い関係のある或るブルジョアのところへ出かけて洋行費を出してくれと頼みこんだこともあったが、勿論ものにはならなかった。
 武林無想庵と叡山《えいざん》で暮らしている頃、無想庵は私をパリへ連れて行ってくれるようなことをいっていたから楽しみにしていたのだが中平文子にひッかかったので私の洋行もフイになった。
 三四年前、谷崎潤一郎君が洋行をしかけた時も、私はどうかして一緒に出かけたいと思って色々奔走したが、当の谷崎君が中止をしてしまったので自然私の方も立ち消えになった。
 震災後、私は東京にいるのが不愉快なのであちこちと田舎まわりをしながら暮らした、気まぐれに朝鮮の方まで出かけた。――つまりこの四五年というものは殆んど旅で暮らしていたので、在京の諸友とも従って遠ざかり勝でひどく御無沙汰をしてしまった。物を書くよりも私はひとり勝手放題に山川を放浪して歩いている方に自分の芸術的感興? を見出していた。
 私は一昨年の春頃から或る人の温情によって大岡山へ移り住むようになった。そうして僅か一年半位の間に四度引越しをした。現在の家はその四度目の家なのだ。この一年有半の生活はまッたく言語に絶した窮迫ぶりで、到底他人の窺い知ることの出来ぬ程に徹していたのだが、私はそれを耐え忍ぶことに興味? を覚えた。負け惜しみと笑わば笑え! 強情と罵らば罵れ!
 さて、風の吹きまわしで私は卒然として洋行する
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