ことになった。まったく棚ボタである。寝耳に水である。しかし、時節が到来して多年な宿望が達せられたわけだ――しかも自分のと名のつく金でだ――まったく人間万事|塞翁《さいおう》が馬であると、とりあえず喜んで見たのだがひるがえって考えると少からず「季節外れ」感があるのだ。
 自分も今では立派な四十男なのだ。人間四十有余歳にもなれば、どんな阿呆でも、一通り世の中がわかり、娑婆の合点がゆく筈である。自分がどんな性情な持主であり、どれ程の才能があるか位は見当がつく筈だ。フランスへ行ったからといって、忽然《こつぜん》として生れかわるわけではない位なことは自分と雖《いえど》も万々承知はしているつもりである。
 さて、私もひとりの文学者ではある、というよりもいつまでも幼稚な文学書生をもって自任しているのだ。私が今迄に全体どんなことをしたか、どの位な文学上の仕事をしたかと考えて見るとまったくお恥かしい次第なのである。だから私は御苦労にもヨーロッパくんだりまで出かけ、もう少し了見を改めて自分のダダ的精神に研《と》ぎをかけて見たいと考えているのだ。
 私が日本の現在の文学をどんな風に考えているかということはしばらくお預かりとして少くとも自分の「文学」はまだまだ駄目だということだけを私は痛感しているのだ。他人がどんなにすぐれた「文学」を製作しようが、自分のものが駄目ならまったく駄目なのだ。
 私の思想や、生活状態がどんなものであるかということはみなさん先刻承知の筈である。私が西洋へ行ったからといって、それ等のものが遽《にわか》に改まるわけのものではあるまい。
 私は自分の洋行をなにか特別な意味に考えたくはないのだ。今まで日本のあちこち[#「あちこち」に傍点]を歩きまわった延長だと考えたい。至極アッサリした気持で出かけたいのだ。ただ困ったことには生れて初めて「海外文学特置員」などという厄介な大任を背負わされたことだ。自分は果してよく期待にそむかないような仕事をなしおうせるかどうか勿論やって見なければならないが、今の自分の気待では出来るだけやって見る積りだ。だが「待て! しかして見よ!」などと妙チクリンな言葉は発しないからその点は安心してもらいたい。
 私は頭がハイカラな癖に、身体ときたらコイツ恐ろしく東洋人なのだ。特に「食物」の点に至ってはひどいエドッ子なのだ。「食い物」のことを考えると私はも
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
辻 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング