憤《すね》た様子を見せて、後足で源の馬を蹴る。すると源の馬は長い尻尾を振りまして、牝馬の足を押戴くように這倒《はいのめ》る。やがて牝馬の傍へ寄って耳語《みみうち》をすると、牝馬は源の馬の鬣《たてがみ》を噛《か》んで、それを振廻して、もうさんざんに困《じら》した揚句、さも嬉しそうな嘶きを揚げる。二匹の馬は互に踴りかかって、噛合って、砂を浴せかけました。獣の恋は戯《たわむれ》です。
 急に二匹の馬は揃って北の方へ馳出しました。見る見る遠く離れて、馬の背の上に仰《あおむ》けさまに仆れたお隅の顔も形も分らない程になる。不幸な女の最後はこれです。
 やがて馬の姿も黄色い土塵《つちぼこり》の中に隠れて見えなくなりました。

       *     *     *

 源が馬の後を迫って、板橋村の出はずれまで参りました頃はかれこれ昼でした。そこには農夫の群が黒山のように集《たか》って、母親《おふくろ》の腕に抱かれたお隅の死体を見ておりました。源は父親と顔を見合せたばかり、互に言葉を交《かわ》すことも出来ません。海の口村の巡査が人を押分けて源の前へ進んだ時は、群集の視線がこの若い農夫に注《あつま》りましたのです。源は蒼《あお》ざめた口唇へ指さしをして、物の言えないということを知らせました。
 前《さき》の世に恨のあったものが馬の形に宿りまして、生れ変って讐《あだ》をこの世に復《かえ》したものであろう、というような臆測が群集の口から口へ伝わりました。巡査は父親から事の委細を聞取って、しきりに頷《うなず》く。源に何の咎《とが》がない、ということを確めました時は、両親も巡査の後姿を拝むばかりに見送って、互に蘇生《いきかえ》ったような大息《おおいき》をホッと吐《つ》きましたのです。
 群集もちりぢりになって、親戚《みうち》の者ばかり残りました頃、父親は石の落ちたように胸を撫《な》で擦《さす》りながら、
「源、お隅はお前の命を助けてくれたぞよ。さあ爰へ来て沢山《たんと》御礼を言いなされ」
 源は妻の死骸《しがい》の前に立ちまして、黙って首を垂れました。



底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年2月15日初版発行
   1970(昭和45)年2月15日2刷
入力:紅邪鬼
校正:伊藤時也
1999年12月14日公開
2000年6月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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