一人の荒くれ男が、汗雫《あせしずく》になって、傍目《わきめ》もふらずに畠を打っておりました。大な鋤《すき》を打込んで、身を横にして仆《たお》れるばかりに土の塊を鋤起す。気の遠くなるような黒土の臭気《におい》は紛《ぷん》として、鼻を衝くのでした。夫婦は他《ひと》の働くさまを夢のように眺め、茫然《ぼんやり》と考え沈んで、通り過ぎて行きましたのです。板橋村を離れて旅人の群に逢いました。
高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延《はえの》びて、冬季に吹く風の勁《つよ》さも思いやられる。白樺《しらはり》は多く落葉して、高く空に突立ち、細葉の楊樹《やなぎ》は踞《うずくま》るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡《なび》いて、柏《かしわ》の葉もうらがえりました。
ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜の花をもつのは爰《ここ》です。
「かしばみ」の実の路《みち》に落ちこぼれるのも爰です。
爰には又、野の鳥も住隠れました。笹《ささ》の葉蔭に巣をつくる雲雀《ひばり》
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