学生徒の一隊は土塵《つちぼこり》を起てて、馳走《かけあし》で源の前を通過ぎました。
御仮屋《おかりや》の前の厩《うまや》には二百四十頭の牝馬《めうま》が繋《つな》いでありましたが、わけても殿下の亜剌比亜《アラビア》産に配《めあわ》せた三十四頭の牝馬と駒とは人目を引きました。この厩を四方から取囲《とりま》いて、見物が人山を築く。源も馬を競馬場の溜《たまり》へ繋いで置いて、御仮屋の北側へ廻って拝見すると、郡長、郡書記なども「フロック・コォト」の折目正しく、特別席へ来て腰を掛ける。双眼鏡を肩に掛け、白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士は参事官でした。俄然《にわかに》、喇叭《らっぱ》の音が谿底《たにそこ》から起る。次第にその音が近く聞えて来て、終《しまい》には澄み渡った秋の空に鳴り響きました。
十|輌《りょう》ばかりの人力車《くるま》が静粛な群集の中を通って、御仮屋の前まで進みました。真先には年若な武官、次に御附の人々、大佐、知事、馬博士、殿下は騎兵大佐の礼服で、御迎の御車に召させられました。御車は無紋の黒塗、海老染《えびぞめ》模様の厚毛布《あつげっと》を掛けて、蹴込《けこみ》には緋《ひ》の毛皮を敷き、五人の車夫は大縫紋の半被《はっぴ》を着まして、前後に随《したが》いました。殿下は知事の御案内で御仮屋へ召させられ、大佐の物申上《ものもうしあぐ》る度に微笑《ほほえみ》を泄《もら》させられるのでした。群集の視線はいずれも殿下に注《あつま》る。御年は若い盛におわしまし、軍帽を戴かせられる御姿は、どこやらに国のみかどの雄々しい御面影も拝まれるのでした。まのあたり皇族の権威を仰ぎましたのは、農夫の源にとって生れて始めてのことです。殿下は大佐と馬博士とから「ファラリイス」の駒の批評を聞召《きこしめ》され、やがて長靴のまま静々と御仮屋を下りて、親馬と駒とを御覧になる。勇しい御気象にわたらせられるのですから、もう静息《じっと》していらせられることの出来ないという御有様。花火は時々一団の白い煙を空に残して、やがてそれが浮び飄《ただよ》う雲の断片《ちぎれ》のように、風に送られて群集の頭上を通る時には、あちこちに小供の歓呼が起る。殿下もたまには青空を仰がせられて、限《はて》も無い秋の光のなかに煙の消え行く様を眺めさせられました。
背後《うしろ》から押される苦痛《くるしさ》に、源は人を分けて特別席の幕外へ出ました。殿下はまた熱心に馬を見給う御様子。参事官なぞは最早《もう》飽果てて、八つが岳の裾に展がる西原の牧場を望んでおりました。源は御茶番の側を通りぬけて、秣小屋《まぐさごや》の蔭まで参りますと、そこには男女《おとこおんな》の群の中に、母親、叔母、外に身内の者も居る。源の若い妻――お隅も草を藉《し》いて。
「よっぽど良い馬が来た」
と源は佇立《たたず》みながら独語《ひとりごと》のように。叔母は振り返って、
「道理だぞよ。そいッたってもなあ」
「叔母さん、宮様を拝まッしたか」
「私《わし》はなあ、橋の傍で拝みやした」
母親《おふくろ》は源の横顔を熟視《みまも》って、
「源、お前《めえ》も握飯《むすび》はどうだい。たべろよ。沢山《たんと》あって残っても困るに」
「ああ」と源は夢中の返事、胸の中には勝負のことが往ったり来たりするばかり。名誉心の為に駆られて、饑渇《うえかわ》いて、唯もうそわそわとしておりました。
「これさ。たべろよ」
という母親《おふくろ》の言葉に、お隅は握飯《むすび》を取って、源の手に握らせました。源は夢中で、一口それを頬張って、ぷいと厩の方へ駆出して行って了いました。
御茶番から羽織|袴《はかま》で出て来た赤ら顔の農夫は源の父《おやじ》です。そこここと見廻して、
「源は来やせんか」と母親《おふくろ》に皺枯声《しゃがれごえ》で尋ねる。
「今、爰《ここ》に居たが、どこかへ駆走《とっぱし》っちゃった」
「彼奴《あいつ》にも困っちまう。今日は恰《まる》で狂人《きちがい》みたよう。私《わし》が、宮様へ上《あげ》る玉露の御相伴をさしたい、御茶菓子の麦落雁《むぎらくがん》も頂かせたい、と思って先刻《さっき》から探しているんだけど」
叔母は引取って、
「源さの大《いか》くなったには、私《わし》魂消《たまげ》た。全然《まるで》、見違えるように。しかし、お前《めえ》には少許《ちっと》も肖《に》ていねえだに」
「私《わし》にかえ。彼奴は私に肖ねえで、亡くなった祖父《じじい》に肖《に》たと見える。私は彼奴を見ると、祖父を思出さずにはおられやせん」
と楽しそうに話しておりますと「ファラリイス」の駒も大概《あらかた》御覧済になりましたので、御仮屋の北側に記念の小松を植えさせられました。人々は倦《う》んで了《しま》って、特別席にかしこまる官吏の
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