「爺《おやじ》、己《おれ》もお前《めえ》も此頃《こないだ》馬を買った覚がある。どうだい、この馬は何程《どのくれえ》の評価《ねぶみ》をする――え、背骨の具合は浅間号に彷彿《そっくり》だ。今日この原へ集った中で、この程《くれえ》良い馬は少なかろう」
 と一人の馬喰《ばくろう》が手を隠して袖《そで》口を差出す。連の男は笑いながらその内《なか》へ手を入れて、
「こうだ」
「ふふ、そうさ」
 と傍に手綱を控えて立っている若者に会釈して、
「若い衆、怒っちゃいけやせん。少々|私《わし》にこの馬を撫《な》でさして御くんなんしょ」
 光沢《つや》を帯びた栗毛の腰の辺を撫下し、やがて急に尻毛《しりお》を掴んで、うんと持上げて見ました。
「まあ私が買えばこの馬だ」
 若者は馬喰の言葉に、したたか世辞を言われたという様子で、厚い口唇《くちびる》に自慢らしい微笑《ほほえみ》を湛《たた》えました。
 源吉というのがこの若者の名で、それを山家《やまが》の習慣《ならわし》では頭字ばかり呼んで、源で通る。海の口村の若い農夫には、いずれも綽名《あだな》があって、源のは「藁草履《わらぞうり》」というのでした。それは山家の者が手造《てづくり》にする不恰好《ぶかっこう》な平常穿《ふだんばき》を指したもので、醜男子《ぶおとこ》という意味をあらわしたものです。いかさま、日に焼けたその顔は――鼻付の醜《まず》さから、目の細さ加減、口唇の恰好、土にまみれた藁草履を思出させる。しかし、源も血気盛《けっきざかり》な年頃ですから、若々しい頬《ほお》の色なぞには、万更《まんざら》人を引きつけるところが無いでもない。それに筋骨の逞《たくま》しさ、腕力の勝《すぐ》れていること、まあ野獣と格闘《たたかい》をするにも堪《た》えると言いたい位で、容貌《かおつき》は醜いと言いましても、強い健《すこやか》な農夫とは見えるのでした。
 功名心の深い源は、その日の競馬の催に野辺山が原附近の村々から集る強敵を相手にして、晴の勝負を争う意気込でした。最後の勝利、無上の栄誉などを考えて、昨夜はおちおち眠りません。馬には、大豆、馬鈴薯《じゃがいも》、藁《わら》、麦殻《むぎがら》の外に糯米《もちごめ》を宛てがって、枯草の中で鳴く声がすれば、夜中に幾度か起きて馬小屋を見廻りました。しかし、この野辺山が原へ上って来て、冷々《ひやひや》とした清《すず》しい秋の空気を吸うと、もう蘇生《いきかえ》ったようになりましたのです。高原の朝風はどの位|心地《こころもち》のよいものでしょう。源は直にゆうべの疲労《つかれ》を回復《とりかえ》して了いました。それに、人の気を悪くするような誇張《みてくれ》をやりたがるのが、この男の性分で、そこここと馬を引廻して、碌々《ろくろく》観相《みよう》も弁《わきま》えない者が「そいッたっても、まあ良い馬だいなあ」とでも褒《ほ》めようものなら、それこそ源は人を見下げた目付をして、肩を動《ゆす》って歩く。ところへ、馬喰の言草があれでしょう――源が微笑《にっこり》する訳なんです。
 殿下の行啓と聞いて、四千人余の男女《おとこおんな》が野辺山が原に集りました。馬も三百頭ではききますまい。それは源が生れて始めての壮観《ながめ》です。御仮屋《おかりや》は新しい平張《ひらばり》で、正面に紫の幕、緑の机掛、うしろは白い幕を引廻し、特別席につづいて北向に厩《うまや》、南が馬場でした。川上道《かわかみみち》の尽きて原へ出るところに、松の樹蔭から白く煙の上るのは商人《あきんど》が巣を作ったので、そこでは山|葡萄《ぶどう》、柿などの店を出しておりました。中には玉蜀黍《とうもろこし》を焼いて出すもあり、握飯の菜には昆布《こぶ》に鮒《ふな》の煮付を突出《つきだし》に載せて売りました。
 源の功名を貪《むさぼ》る情熱は群集の多くなるにつれて、胸中に燃上りましたのです。源の馬というのは「アルゼリィ」の血を享《う》けた雑種の一つで、高く首を揚げながら眼前《めのまえ》に人馬の群の往ったり来たりするのを眺《なが》めると、さあ、多年の間潜んでいた戦好《いくさずき》な本性を顕《あらわ》して来ました。頻《しきり》と耳を振って、露深い秋草を踏散して、嘶《いなな》く声の男らしさ。私《ひそか》に勝利を願うかのよう。清仏《しんふつ》戦争に砲烟《ほうえん》弾雨の間を駆廻った祖《おや》の血潮は、たしかにこの馬の胸を流れておりました。その日に限っては、主人の源ですら御しきれません――ところどころの松蔭に集る娘の群、紫絹の美しい深張《ふかばり》を翳《さ》した女連なぞは、叫んで逃げ廻りました。
 急に花火の音がする。それは海の口村で殿下の御着《おちゃく》を報せるのでした。物売る店の辺《あたり》から岡つづきの谷の人は北をさして走ってまいります。川上から来た小
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