藁草履《わらぞうり》
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)藁草履《わらぞうり》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大字|金《かね》

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)掻※[#「※」は「てへん+劣」、77−9]《かきむし》り
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 長野県北佐久郡岩村田町大字|金《かね》の手《て》の角にある石が旅人に教えて言うには、これより南、甲州街道。
 この道について南へさして行くと、八つが岳《たけ》山脈の麓《ふもと》へかけて南佐久の谷が眼前《めのまえ》に披《ひら》けております。千曲川《ちくまがわ》はこの谷を流れる大河で、沿岸に住む人民の風俗方言も川下とは多少違うかと思われます。岸を溯《さかのぼ》るにつれまして、さすがの大河も谿流《けいりゅう》の勢に変るのですが、河心が右岸の方へ酷《ひど》く傾《かし》いでおりますので、左岸は盛上がったような砂底の顕《あらわ》れた中に、川上から押流された大石が埋《うずま》って、ところどころに白楊《どろ》、蘆《あし》、などの叢《やぶ》が茂っております。右岸に見られるのは、楓《かえで》、漆《うるし》、樺《かば》、楢《なら》の類《たぐい》。甲州街道はその蔭にあるのです。忍耐力に富んだ越後《えちご》商人は昔から爰《ここ》を通行しました。直江津の塩物がこの山地に深入したのも専《もっぱ》らこの道を千曲川に添うて溯りましたもので。
 両岸には、南牧《みなみまき》、北牧、相木、などの村々が散布して、金峯山《きんぷさん》、国師山、甲武信岳《こぶしがたけ》、三国山の高く聳《そび》えた容《さま》を望むことも出来、又、甲州に跨《またが》った八つが岳の連山《やまつづき》には、赤々とした大崩壊《おおくずれ》の跡を眺《なが》めることも出来ます。この谷の突当ったところが海の口村で、野辺山が原はつい後に迫っているのです。海の口村は、もと河岸に在りましたのが、河水の氾濫《みなぎ》りました為に、村民は高原の裾《すそ》へ倚《よ》って移住したとのこと。風雪を防ぐ為に石を載せた板葺《いたぶき》の屋根を見ると、深山の生活も思いやられます。この辺に住んでおりますのが慓悍《ひょうかん》な信州人でして、その職業には、牧馬、耕作、杣《そま》、炭焼――わけても牧馬には熱心な人民です。この手合が馬を追いながら生活《くらし》を営《たて》る野辺山が原というのは、天然の大牧場――左様《さよう》さ、広さは三里四方も有ましょうか、秣《まくさ》に適した灌木《かんぼく》と雑草とが生茂《おいしげ》って、ところどころの樹蔭《こかげ》には泉が溢《あふ》れ流れているのです。ここへ集るものは、女ですら克《よ》く馬の性質を暗記している位。男が少年のうちからして乗馬の術に長《た》けているのは、不思議でもなんでも有ません。土地の者の競馬好と来ては――そりゃあ、もうこの手合が酒好なと同じように。
 こういう土地柄ですから、女がどんな労働をしているか、大凡《おおよそ》の想像はつきましょう。男を助けて外で甲斐々々《かいがい》しく働く時の風俗は、股引《ももひき》、脚絆《はばき》で、盲目縞《めくらじま》の手甲《てっこう》を着《は》めます。冠《かぶ》りものは編笠です。娘も美しいと言いたいが、さて強いと言った方が至当で、健《すこやか》な活々《いきいき》とした容貌《おもざし》のものが多い。
 海の口村が産馬地《うまどこ》という証拠には、一頭や二頭の家養をしないものは無いのでも知れましょう。
 何がこの手合の財産かなら、無論、馬です。
 清仏《しんふつ》戦争の後、仏蘭西《フランス》兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象勇健な「アルゼリイ」種の馬匹《ばひつ》が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専《おも》にこの「アルゼリイ」種を指したものです。その後、亜米利加《アメリカ》産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山が原の馬市は一年増に盛大になる、その噂さがなにがしの宮殿下の御耳にまで届くようになりました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好でいらせられるのですから、御|寵愛《ちょうあい》の「ファラリイス」という亜刺比亜《アラビア》産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ、人気が立ったの立たないのじゃ有ません。「ファラリイス」の血を分けた当歳が三十四頭という呼声になりました。殿下の御|喜悦《よろこび》は何程《どんな》でございましたろう――とうとう野辺山が原へ行啓を仰出《おおせいだ》されましたのです。

    壱


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