影も見えません。宮は御休息もなく四列の厩を一々案内させて、二時問余も大佐、馬博士を御相手に、二百頭の馬匹の性質、血統、遺伝などを聞召《きこしめ》され、すこしも御疲労の体《てい》に見えさせ給わないのです。花やかに熱い秋の日が照りつけるので、色白な文官の群は幕の蔭に隠れ、互に膝頭《ひざがしら》を揉《も》みました。
 功名を急ぐ源にとりましては、この二時間の長さが堪えられない程の苦痛でした。いよいよ競馬の催が始まるということになりましたので、四千の群集は塵《ほこり》を揚げて、馬場の埒際《らちぎわ》へ吾先にと馳《か》けて参ります。源は黄色い土烟を嗅《か》いで噎返《むせかえ》りました。大波のように押寄る男女の雑沓《ざっとう》、子供の叫び声――とても巡査の力で制しきれるものでは有ません。「さあ、退《ど》いた、退いた」と、源は肩と肩との擦合《すれあ》う中へ割込んで、漸《やっと》のことで溜《たまり》へ参りますと、馬は悦《うれ》しそうに嘶《いなな》いて、大な首を源の身《からだ》へ擦付けました。
 その日の競馬は五組に分れて、抽籤《くじびき》の結果、源は最後へ廻ることになっておりました。誰しもこの最後の勝負を予想する、贔顧《ひいき》々々につれて盛に賭《かけ》が行われる。わけても源の呼声は非常なもので、あそこでも藁草履、ここでも藁草履、源の得意は思いやられました。最初《のっけ》から四番目まで、湧くような歓呼の裡《うち》に勝負が定まって、さていよいよお鉢《はち》が廻って来ると、源は栗毛《くりげ》に跨《またが》って馬場へ出ました。御仮屋の北にあたる埒《らち》の際《きわ》に、源の家族が見物していたのですが、両親の顔も、叔母の顔も、若い妻の顔すらも、源の目には入りません。馬上から眺めると群集の視線は自己《おのれ》一人に注《あつま》る、とばかりで、乾燥《はしゃ》いだ高原の空気を呼吸する度《たび》に、源の胸の鼓動は波打つようになりました。烈しい秋の光は源の頬を掠《かす》めて馬の鼻面《はなづら》に触《あた》りましたから、馬の鼻面は燃えるように見えました。
 五人の乗手の中で、源が心に懼《おそ》れたのは樺《かば》を冠った男です。白、紫、赤などは、さして恐るべき敵とも見えませんのでした。源は青です。樺は一見神経質らしい、それでいやに沈着《おちつ》きすました若い男で、馬も敏捷《びんしょう》な相好《そうごう》の、足腰の締《しま》った、雑種らしい灰色なんです。樺が場を踏んだ証拠は、馬の扱いが柔かで、ゆったりとしていて、加《おまけ》に捜りを入れるような目付をして、他の四人の呼吸を図っているのでも分る。それにこの男の静な、冷い態度《ようす》と言ったら――それは底の知れないような用心深いところがあって、一歩《ひとあし》でも馬に無駄を踏ませまいと、たくらんでいるらしい。源は大違です。あまり心が激《あせ》り過ぎて、乗出さぬ先から手綱を持《もつ》手が震えました。
 相図を聞くが早いか、五人の乗手はもう出発の線を離れる。真先に乗進んだのが源の青、次が紫、白、赤でした、樺は乗|後《おく》れて見えました。「青、青」の叫び声は埒の四方から起る。殿下は御仮屋の紫の幕のかげに立たせられ、熱心に眺入らせ給うのでした。大佐は幾度馬博士の肩を叩《たた》いたか知れません。知事も、郡長も、御附の人々も総立です。参事官は白いしなやかな手を振りました。五人の乗手は丁度乗出した時と同じ順で、五十間ばかりの距離を波打つように乗進んで行った。源が紫に先んじたことは、樺が赤に後れたと同じ程の距離です。ですから源が振返って後を見た時は、舞揚る黄色い土烟《つちけむり》の中に、紫と白とがすれすれに並び進んで、乗迫って来たのを認めたばかり。懼《おそ》るべき灰色の馬頭は塵埃《ほこり》に隠れて見えませんのでした。驚破《すわや》、白は紫を後に残して、真先に進む源をも抜かんとする気勢《けはい》を示して、背後に肉薄して来た。「青」、「白」の声は盛に四方から起る。源も、白も、馬に鞭《むちう》って進みました。競馬好きな馬博士は、「そこだ、そこだ」とばかりで、身を悶《もだ》えて、左の手に持った山高帽子の上へ頻《しきり》と握拳《にぎりこぶし》の鞭をくれる。大佐は薄鬚《うすひげ》を掻※[#「※」は「てへん+劣」、77−9]《かきむし》りました。今、源は百間ばかりも進んだのでしょう。馬は泡立つ汗をびっしょり発《かい》て、それが湯滝のように顔を伝う、流れて目にも入る。白い鼻息は荒くなるばかりで、烈しく吹出す時の呼吸に、やや気勢の尽きて来たことが知れる。さあ、源は激《あせ》らずにおられません。こうなると気を苛《いら》って妄《やたら》に鞭を加えたくなる。馬は怒の為に狂うばかりになって、出足が反《かえっ》て固くなりました。遽《にわか》に「樺、樺」と呼ぶ声
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