が起る。樺はたしかに最後の筈《はず》。しかし、その樺が今まで加え惜んでいた鞭を烈しくくれて、衰えて来た前駆の隙《すき》を狙《ねら》ったから堪りません。見る見る赤を抜き、紫を抜きました。馬博士は帽子を掴潰《つかみつぶ》して狂人《きちがい》のように振回す。樺は奮進の勢に乗って、凄《すさま》じく土塵《つちぼこり》を蹴立てました。それと覚った源が満身の怒気は、一時に頭へ衝きかかる。如何《いかん》せん、樺は驀地《まっしぐら》。馬に翼、翼に声とはこれでしょう。忽《たちま》ち閃電《いなずま》のように源の側を駆抜けて了いました。
必勝を期していた源の失望も思いやられます。勝利の旗は樺の手に落ちました。それは文字を白く染抜いた紫の旗で、外に記念の賞を添えまして、殿下の御前《おんまえ》、群集の喝采《かっさい》の裡《なか》で、大佐から賜ったのでした。源の目は嫉妬《しっと》の為に輝いて、口唇は冷嘲《あざわら》ったように引|歪《ゆが》みました。今は誰一人源を振返って見るものがないのです。殿下は御|機嫌《きげん》麗しく、人々に丁寧な御言葉を賜りまして、御車に召させられました。御通路の左右に集る農夫の群にすら、白の御手套《おてぶくろ》を挙げて一々御挨拶が有りました。御附の人々、大佐、知事、馬博士などは車、参事官、郡長、郡書記、その他の官吏は徒歩《かち》、つづいて「ファラリイス」の駒三十四頭、牝馬二百四十頭、牡馬の群は最後に随《したが》いました。三百頭余の馬匹が列をつくって、こうして通りますのは人目を驚かす程の盛観でした。紫の旗をかざして、凱歌《がいか》を揚げて帰る樺の得意は、どんなでしたろう。さもさも勿体振《もったいぶ》って、いやに反身《そりみ》になって、人を軽蔑《けいべつ》したような目付をしながら、意気揚々と灰色の馬に跨った様は――いやもう小癪《こしゃく》に触って、二目と見られたものじゃない、とまあ、源は思うのでした。拝むような娘の群の視線はこの若者の横顔に注《あつま》りました。全く、源は業《ごう》が沸《に》えて、この男の通るのを見ていられません。嫉妬は一種の苦痛です。源は自分の馬の側に仆《たお》れて、恥かいた額を草の中に埋《うず》めました。
疲労と失望とで悶え苦んでいた源が、むっくと起上った頃は――もう人々も帰って了った。居残る人足は腰を曲《こご》めて御仮屋を取片付ける最中。幕は畳み、旗は下して、遽《にわか》に四辺《そこいら》が寂しくなった。細々と白い煙の上る松蔭には、店を仕舞って帰って行く商人の群も見える。馬は主人を置去にして、そこここと手綱を引摺《ひきず》りながら、「かしばみ」の葉でも猟《あさ》っているらしい。今は、なにもかも源を見下げたり、笑ったりしてる――小鳥ですら人を軽蔑したような声で鳴いて通る、と源には思われるのでした。忌々しいものです。源は腹愈《はらいせ》のつもりで、路傍《みちばた》の石を足蹴《あしげ》にしてやった。尊大な源の生命《いのち》は名誉です。その名誉が身を離れたとすれば、残る源は――何でしょう。自分で自分を思いやると、急に胸が込上げて来て、涙は醜い顔を流れるのでした。やがて、思いついたように馬の傍へ馳寄《かけよ》って、力任せに手綱を引手繰《ひったく》りましたんです。
「こんな目に逢ったのも汝《うぬ》のお蔭だ」
凡夫の悲しさ、源はその日のことを馬の過失《せい》にして、さんざんに当り散した。丁度、罪人を撻《むちう》つ獄卒のように、残酷な性質を顕したのです。馬に何の罪があろう。しかし畜生ながらに賢いもので、その日の失敗《しくじり》を口惜《くちお》しく思うものと見え、ただ悄々《しおしお》として、首を垂れておりました。二重※[#「※」は「めへん+匡」、79−8]《ふたえまぶち》の大な眼は紫色に潤んで来る。幽《かすか》に泄《もら》す声は深い歎息《ためいき》のようにも聞える。人間の苦痛《くるしみ》ですら知られずに済む世の中に、誰が畜生の苦痛を思いやろう。生活《いき》て、労苦《はたら》いて、鞭撻《むちう》たれる――それが畜生の運なんです。馬は不平な主人の後に随《つ》いて、とぼとぼと馬小屋の方へ帰って行きました。好な飼料《かいば》をあてがわれても、大麦の香を嗅《か》いで見たばかりで、口をつけようとはしませんでした。
むしゃくしゃ腹で馬小屋を出まして、源は物置伝いに裏庭へ廻って見ますと、家には誰も居りません。楢《なら》の枯枝にからみつく青々とした夕顔の蔓《つる》の下には、二尺ばかりもあろうかと思われるのがいくつか生《な》り下《さが》って、白い花も咲き残っている。黄ばんだ秋の光が葉越しにさしこんだので、深い影は地に落ちておりました。丁度、そこへ手桶《ておけ》を提げて、水を汲んで帰って来たのが妻のお隅です。源は、いきなり、熱湯《にえゆ》のような
前へ
次へ
全14ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング