ばたばたさせる。書記は煙管《なたまめ》の雁首《がんくび》で虫を押えたかと思うと、炉の灰の中へ生埋めにしました。
「先生」と源は放心した人のように灰の動く様を熟視《みつ》めて、「先刻の御話でごわすが、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」
「有ますとも。足の傷はあれでなかなか馬鹿にならん。現在、私の甥《おい》がそれだ――撃《ぶ》ち処《どこ》が悪かったと見えて、直に往生《まい》って了った。人間の命は脆《もろ》いものさ……見給え、この虫の通りだ」
「ははははは」と源は愚かしい目付をして、寂しそうに笑って、「万一、その女が死にでもしたら、先生、奴さんの方はどうなりやしょう」
「そりゃあ君、知れきってる話さ。無論、捕《つかま》らあね。人を殺して置いて自分ばかり助かるという理屈はないからな」
「ははははは」
源は反返《そりかえ》って笑いました。人間は時々心と正反対《うらはら》な動作《こと》をやる――源の笑いが丁度それです。話好な書記は乗気になって、
「あの子についちゃ実にかわいそうな話があるんでね。私はお隅さんを見ると、罅痕《ひびたけ》の入った茶椀《ちゃわん》を思出さずにいられやせんのさ。まあ聞いてくれ給え」
と前置をして、話出したのはこうでした。
お隅の父親《おやじ》がこの男と同じ書記仲間で大屋の登記役場に勤めている時分――お隅も大屋へ来て、唯有《とあ》る家に奉公していました。根が働好な女で、子供の世話、台所の仕事、そりゃあもう何から何まで引受けて、身を粉にして勤めましたから、さあ界隈《かいわい》でも評判。お隅が遠い井戸から汲々《せっせ》と水を担いで通るところを見掛けた者は、誰一人|褒《ほ》めないものが無い位。主人の家というのは少許《すこし》引込んだ処に在って、鉄道の踏切を通らねば、町へ買物に出ることが出来ないのでした。お隅はよく主人の子供を負《おぶ》って、その踏切を往たり来たりした。丁度、そこに線路番人が見張をして佇立《たたず》んでいて、お隅の通る度《たび》に言葉を掛ける。終《しまい》には、お隅の見えるのを楽みにして待っている、という風になりましたのです。ある日のこと、番人が休暇で自分の家の前に立っていると、そこをお隅は子供を負《おぶ》いながら通りました。お隅は無理やりに呼込まれて――その番人というのは、すばらしい力のある奴ですから、さんざんに嚇《おど》かされたり賺《すか》されたりして――それから気がついて見ると、いつの間にかお隅の身体は番人の腕の中に在ったとか言うことで。子供は二人が喧嘩でもするのかと思って、烈しく泣いたということです。
間もなくお隅はこの番人と夫婦になりたいということを、人を以《もっ》て、父親のところへ言込みました。
お隅が迷いもし、恐れもしたことは、それから又た間もなく夫婦約束を取消したいと言って、父親の許《ところ》へ泣いて来たのでも知れる。お隅は小鳥です。その小鳥が網を張って待っていた番人の家へ出掛けて行って、前《さき》の約束を断ろうとすると――獣欲で饑渇《うえかわ》いた男のことですから堪《たま》りません、復たお隅は辱《はずか》しめられました。番人は手柄顔に吹聴する、さあ停車場附近では専《もっぱ》ら評判、工夫の群まで笑わずにはおりませんのでした。とうとうお隅は父親へ置手紙をして、ある夜の闇に紛れて、大屋を出奔して了いました。
父親がこの書記に見せた手紙の中には、無量の悲哀《かなしみ》が籠《こ》めてあったということです。鉄釘《かなくぎ》流に書いた文字は一々涙の痕《あと》で、情が迫って、言葉のつづきも分らない程。それは主人へ対して申訳のないこと、朝夕にまといつく主人の子供もさぞ後で尋ね慕うかと思えば愍然《ふびん》なこと、「これも身から出た錆《さび》、父《とっ》さん堪忍しておくれ、すみより」としてありましたそうです。父親は無学な娘の手紙を読んで、その上に熱い涙を落しましたとのこと。
「という訳で」と書記は冷くなった酒を飲干して、「ところが同僚は極の好人物《ひとよし》だもんだで、君どうでしょう、泣寝入さ。私は物数寄《ものずき》にその番人を見に行きやした。丁度、直江津の二番が上って来た時で、その男が饅頭笠《まんじゅうがさ》を冠って、踏切のところに緑色の旗を出していやしたよ。え――君はその番人をどんな男だと思うえ。せめて年でも若いのかと? へへへへへ、いやはや大違い。私も魂消《たまげ》たねえ、まあ同僚と同い年位の爺《おやじ》じゃないか」
源は蒼くなって、炉に燃え上る楢の焚火《たきび》を見入ったまま。
「それから一月ばかり経って」と書記は思出したように震えながら、「私は一度あの子に行逢ったがね、その時のお隅さんは――へえもう、がらりと変っていやしたよ。蟀谷《こめかみ》のところへ紫色の頭痛|膏《こう》なんぞを
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