。
「私《わし》かね。私は大屋の者《もん》ですが、爰《ここ》の登記役場の書記に出ていやすよ。私も海の口へはまだ引越して来たばかりで。これからは何卒《どうか》まあ君等にも御心易くして貰《もら》わにゃならん――さ、一杯|献《あ》げやしょう」
二階ではしきりに手が鳴る。娘はいそいそと梯子段を上って行きました。急に四辺《そこいら》が明るくなったかと思うと――秋の日が暮れるのでした。暗い三分心の光は煤けた壁の錦絵を照して、棚の目無達磨《めなしだるま》も煙の中に朦朧《もうろう》として見える。
「どうです、きょうの原の騒ぎは」と書記は楢《なら》を焼《く》べて火気を盛にしながら、「殿下が女にも子供にも御挨拶のあったには私|魂消《たまげ》た。競馬で人の出たには――これにも魂消た。君も競馬を終局《しまい》まで見物しましたかい」
源は苦笑《にがわらい》をしました。書記はそれとも知らない様子で、
「さ、不思議なこともあればあるもので、私の同僚が今日の競馬に出た男のところへ娘を嫁《かたづ》けてあるという話さ。娘の名ですかい――お隅さん。あの子なら私は大屋で克《よ》く知っていやす。しかも今日、原で不意と逢いやしてね。丸髷《まるまげ》なんかに結ってるもんだで、見違えて了いやしたのさ」
と言われて、源は手を揉んでおりますと、書記は人に話をさせない男でして、
「まあ聞いてくれ給え。こういう訳です。私が今、爰《ここ》へ来る途中、同僚が蒼くなって通るから、君どうしたい、と聞くと、娘のやつが夫婦喧嘩して、足の骨を折った、医者のところへこれから行くんだ、と言って、先生からもう大弱りさ。かわいそうに――よくよく運の悪い子だ」
聞いていた源は急に顔色を変えて、すこし狼狽《うろたえ》て、手に持った猪口の酒を零《こぼ》しました。書記は一向|無頓着《むとんじゃく》――何も知らない様子なので、源もすこしは安心したのでした。腹蔵《つつみかくし》のない話が、こうして景気を付けてはいるものの、それはほんの酒の上、心の底は苦しいので、
「先生、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」
と恍《とぼ》け顔に聞いて見る。書記は愚痴を酒の肴《さかな》というような風で、初対面の者にも聞かせずにはいられない男ですから――碌々源の言うことも耳に止めないで、とんちんかんな挨拶《あいさつ》。「私《わし》は登記役場に出てから、三年目になりやすよ。馬流《まながし》の正公《しょうこう》は私よりか前に奉職して、それで私と給料が同じだもんだで、大層口惜しがってね。此頃《こないだ》も、馬流へ行った時、正公のところへ寄って、正公ちったあ上げて貰いやしたかね、と聞いたら、弱ったよ、今月は五十銭も上るかと思ったに、この模様ではお流れだ、と言って嘆《こぼ》していやした」
「どうでごわしょう、先生、その女も足の骨を折られた位で……」
「しかし、人間は信用がなくちゃ駄目だね。私なんかのように貧乏人で、能の無い者でも、難有《ありがた》いことには皆さんが贔顧《ひいき》にしてくれてね。此頃《こないだ》も斎藤書記官に逢いやした時、お前《めえ》は今いくら取る、と言いやすから、九円になりやしたと言うと、九円? 九円も取るか、と大層喜んでくれやして、九円取れればいいだろう、と言いやすのさ。そりゃ私|独《ひと》りなら楽ですけれど、家内が大勢でなかなかやりきれやせん、と言いやしたら、よしよしその中に又た乃公《おれ》が骨を折って上るようにしてやる、と言ってくれやした」
「どうでごわしょう、先生、その女も……」
「噫《ああ》。貧苦ほど痛いものは無いね。貧苦、貧苦、子供は七人もあるし、家内には亡くなられるし――加《おまけ》に子供は与太野郎(愚物)ばかりで……。なあ、君、私もこんなに貧乏していて、それで酒ばかりは止められない。この楽みがあればこそ活きてる。察してくれ給え、酒でも飲まなけりゃいられんじゃないか」
「どうでごわしょう、先生……」
「地方裁判所なんとなると、どうもさすがに違ったものだね。君、『テエブル』が一畳敷もあろうかと思われる位大きくて、その上には青い織物《きれ》が掛けてもあるし、肘突《ひじつき》なんかもあるし、腰掛には空気枕のようなやつが付いてて、所長の留守に一寸乗って見ると――ぷくぷくしていて、工合のいいことと言ったら。君、そうして廷丁が三人も居るんだよ。それで呼鈴《よびりん》と言うので、ちりりんと拈《ひね》ると、そのまあ、ちり、ちり、ちりん、の工合で誰ということが分ると見えて、その人がやって来ますね。大したものですなあ」
すこし話が途切れました。月のさした窓の外に蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声が聞える。蛾《が》の大なのが家《うち》の内へ舞込んで来て、暗い洋燈《ランプ》の周囲《まわり》を飛んでおりましたが、やがて炉辺へ落ちて羽を
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