めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾《すそ》の見えた八つが岳が次第に嶮《けわ》しい山骨を顕わして来て、終《しまい》に紅色の光を帯びた巓《いただき》まで見られる頃は、影が山から山へ映《さ》しておりました。甲州に跨《またが》る山脈の色は幾度《いくたび》変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空になりました。
ああ朝です。
男山、金峯《きんぷ》山、女山、甲武信岳《こぶしがたけ》、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源。かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました。
馬上のお隅は首を垂下げておりましたが、清《すず》しい朝の空気を吸うと急に身体を延して、そこここの景色を眺め廻して、
「貴方《あんた》、お願いでごわすが、爰《ここ》から家へ帰って下さい」
と言われて、源は呆《あき》れながらお隅の顔を見上げました。
「折角、爰まで来て、帰ると言う馬鹿が何処にある」
「私はどうしても平沢へ行きたくないような心地《こころもち》がして……気が咎《とが》めてなりゃせん」
「お前はどうかしてるよ。今、爰から帰って何になるぞい。自分の身体が可愛《かわいい》とは思わねえかよ」
「噫、私は死んでもかまわない」
「何? 死んでもかまわない?」と源は首を縮めて、くすくす笑って、「ふふ、馬鹿も休み休み言え。こんな蕎麦も碌々出来ねえような原の上でさえ、見ろ、住んでいる人すら有るじゃねえかよ。奥山の炭焼の烟《けむり》に燻《くすぶ》って、真黒になって、それでも働く人のあるというのは――何の為だ。皆《みんな》、生きたいと思やこそ。自分の命より大切なものが世の中にあるかよ」
と言って、源は板橋村の人家から青々と煙の空に上るのを眺めました。お隅は恨めしそうに、
「貴方は自分の命がそんなに大切でも、他《ひと》の命は大切じゃごわせんのかい。貴方が生きたけりゃ、私だっても生きたい」
「解らねえなあ、何故女というものはそう解らねえだろう。それだによって、己が暗い中から起きて、忙しい手間を一日|潰《つぶ》して、こうしてお前を馬に乗せて、連れて行くとこじゃねえか。命が惜くねえもんなら、誰がこんな思いをして、平沢くんだりまでも行くものかよ」と源
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