は下して、遽《にわか》に四辺《そこいら》が寂しくなった。細々と白い煙の上る松蔭には、店を仕舞って帰って行く商人の群も見える。馬は主人を置去にして、そこここと手綱を引摺《ひきず》りながら、「かしばみ」の葉でも猟《あさ》っているらしい。今は、なにもかも源を見下げたり、笑ったりしてる――小鳥ですら人を軽蔑したような声で鳴いて通る、と源には思われるのでした。忌々しいものです。源は腹愈《はらいせ》のつもりで、路傍《みちばた》の石を足蹴《あしげ》にしてやった。尊大な源の生命《いのち》は名誉です。その名誉が身を離れたとすれば、残る源は――何でしょう。自分で自分を思いやると、急に胸が込上げて来て、涙は醜い顔を流れるのでした。やがて、思いついたように馬の傍へ馳寄《かけよ》って、力任せに手綱を引手繰《ひったく》りましたんです。
「こんな目に逢ったのも汝《うぬ》のお蔭だ」
凡夫の悲しさ、源はその日のことを馬の過失《せい》にして、さんざんに当り散した。丁度、罪人を撻《むちう》つ獄卒のように、残酷な性質を顕したのです。馬に何の罪があろう。しかし畜生ながらに賢いもので、その日の失敗《しくじり》を口惜《くちお》しく思うものと見え、ただ悄々《しおしお》として、首を垂れておりました。二重※[#「※」は「めへん+匡」、79−8]《ふたえまぶち》の大な眼は紫色に潤んで来る。幽《かすか》に泄《もら》す声は深い歎息《ためいき》のようにも聞える。人間の苦痛《くるしみ》ですら知られずに済む世の中に、誰が畜生の苦痛を思いやろう。生活《いき》て、労苦《はたら》いて、鞭撻《むちう》たれる――それが畜生の運なんです。馬は不平な主人の後に随《つ》いて、とぼとぼと馬小屋の方へ帰って行きました。好な飼料《かいば》をあてがわれても、大麦の香を嗅《か》いで見たばかりで、口をつけようとはしませんでした。
むしゃくしゃ腹で馬小屋を出まして、源は物置伝いに裏庭へ廻って見ますと、家には誰も居りません。楢《なら》の枯枝にからみつく青々とした夕顔の蔓《つる》の下には、二尺ばかりもあろうかと思われるのがいくつか生《な》り下《さが》って、白い花も咲き残っている。黄ばんだ秋の光が葉越しにさしこんだので、深い影は地に落ちておりました。丁度、そこへ手桶《ておけ》を提げて、水を汲んで帰って来たのが妻のお隅です。源は、いきなり、熱湯《にえゆ》のような
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