。船宿などのゴチヤ/\並んで居るところです。投網《とあみ》も乾してあります。そこで私は小船を借り一人の子供を乘せて水の上を漕ぎ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたこともあります。河岸へ行く度に、子供はそれを言出して、復た船に乘りたいと強請《ねだ》りましたが、今日は止さして、一緒に柳並木の下を歩きました。ふと私は十二三ばかりの獅子を冠つた男の兒が本所の方へ歸つて行くのに出逢ひました。
『オイ、そこンところで一つ遣つて見て呉れないか。』
 私は呼び留めまして、袂から二錢銅貨を二つ取出して渡しました。
『御覽、角兵衞だよ。』
 と小聲で言つて聞かせますと、子供も石の柵に倚凭《よりかゝ》つて眺めました。
 人通りの少い靜かな柳のかげで、雪袴《ゆきばかま》のやうなものを穿いた少年が柔軟《やはらか》な身體を種々に動かして見せた。兩足で首を挾む、逆《さかさ》に蜻※[#「虫+廷」、381−1]返《とんぼがへ》りする、自由自在にやりました。少年は細い瘠せた、曲藝の爲に成長《しとな》れないやうな身體をして居ました。
『お錢《あし》を持ちながら遣るのかい。そこに置いたら可いぢやないか。私が見てるから大丈夫だ。』
 と私が言ふと、少年はそれも左樣だといふ顏附で笑つて、手に一ぱい握り締めて居た銅貨を柳の根元のところに置いて、復た一つ二つ藝を遣りました。身體の中心を兩手だけで支へて、土の上を動き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りなぞして見せました。
 斯ういふ少年に稼がせて世渡りするらしい日に燒けた女がそこへ通りかゝりました。間もなく少年は掌の土を拂ひ、赤い布で頭の上の小さな獅子を包んで、その女の後を追ひました。
『兄さんも來れば可いのに、お獅子が見られるのに。』
『ネ、角兵衞見たつて、左樣言つてやりませう。』
 私は弟の方の手を引いて歸りました。
 家の門口まで行くと、兄の方が飛んで來て、獅子を見せなかつた不平を頻りに並べました。弟は又、身振手眞似をして兄を羨ましがらせました。
『ア、好いナア。』
『來れば可いぢやないか。』
『何故兄さんは一緒に行かなかつたの。お獅子が見られたのに。』
『父さん、そのかはり蜜豆買つて――』
『蜜豆なんか止せ。』
 私は子供を連れて家へ入り、茨城の方から貰つたばかりの粽《ちまき》を分けて呉れました。青い柔かな笹の葉で面白く包んであつて、越後粽の三角なのとも異り、私の故郷の方で造るのとも違ひました。子供の甘さうに食つて居る傍で、私はその笹の葉を笛のやうに鳴らして聞かせました。
 今笑つて居る、直に復たぐづり出す、一度泣出したら地團太《ぢだんだ》踏むやら姉さん達に掻附くやら、容易には納まらないのが弟の方の子供です。何故子供といふものは、もつと自然に育てられないのかしら――何故斯う威かしたり欺したり時には殘酷な目にまで逢はせなければ育てられないのかしら――私は時々そんなことを思ひます。頭の一つもブン擲らずに濟ませるものなら、成るべく私はそんな眞似もしたくない。左樣思つて控へて居りますと、『貴方がたの父さんは御砂糖だと見えますネ』などと人々には笑はれる。終《しまひ》には世話するものまで泣いて了ふ。見るに見兼ねて、何時でも私がそこへ出なければ成らないやうなことに成ります。どうかすると私は憤怒の情に驅られて、子供を叱責する前に、激しく自分の唇を噛むことも有ります。憐むべき Domestic Animal……なにしろ弟の方の子供は丁度今が荒々しい、手に負へない盛りですから……
 どれ、私の生れた家の方へ貴女の想像を誘つて行つて、舊い屋敷をお目に掛けませう。
 母がよく腰掛けた機《はた》の置いてある板の間は、一方は爐邊へ續き、一方は父の書院の方へ續くやうに成つて居ました。斯の板の間に續いて、細長い廂風《ひさしふう》の座敷がありまして、それで三間《みま》ばかりの廣い部屋をぐるり[#「ぐるり」に傍点]と取圍《とりま》くやうに出來て居りました。斯の部屋々々は以前本陣と言つた頃に役に立つたので、私の覺えてからは、奧の部屋などは特別の客でもある時より外に使はない位でした。別に上段の間といふのが有りました。そこは一段高く設けた奧深い部屋で、白い縁《へり》の疊などが敷いてあり、昔大名の寢泊りしたところとかで、私が子供の時分には唯床の間に古い鏡や掛物が掛けてあるばかりでした。父はそこを神殿のやうにして、毎朝神樣を拜みましたから、私も眼が覺めると母に連れられて御辭儀に行つたものです。それほど父は嚴格な、神信心な人でした。髮なども長くして、それを紫の紐で束ねて、後の方へ垂れて居ました。上段の間を隔てゝ、寛《くつろ》ぎの間といふのも有つて、そこが兄の居間に成つて居りました。村の旦那衆はよくそこへ話しに集りました。仲の間は明るい光線の射し込む部屋で、母や嫂が針仕事をひろげたところでした。障子を明けると、細長い坪庭を隔てゝ石垣の下に叔母の家の板屋根などが見え、ずつと向ふの方には遠い山々、展けた谷、見霞むやうな廣々とした平野までも望みました。丁度私の田舍は高い山の端《はづれ》で、一段づゝ石垣を築いて、その上に村落を造つたやうな位置にあります。私の家はその中央《なかほど》にありました。叔母の家といふはお霜|婆《ばあ》といふ女に貸してありましたが、心易く私の家へ出入した人でした。そこから通つて來るには是非とも坂道の往來を上らなければなりませんでした。
 お霜婆はてか[#「てか」に傍点]/\した禿を薄い髮の毛で隱して居るやうな女でした。若い女中を一人使つて、女ばかりで暮して居ました。どうして斯樣な人が叔母の家を借りて居たのか、皆目《かいもく》私には解りませんでしたが、兎《と》に角《かく》村の旦那衆がよく集るところではありました。お霜婆は私を可愛がつて呉れましたから、私も遊びに行き/\しまして、半ば自分の家のやうに心易く思つた位でした。旅の飴屋が唐人笛などを吹いて通ると、必《きつ》とそれを呼んで、棒の先にシヤブるやうにした水飴を私に買つて呉れたのも、斯の婆さんでした。しかしお霜婆の可愛がりやうは、太助やお牧などと違つて、どこか煩《うるさ》いやうなところが有りました。どうして、ナカ/\御世辭ものでした。
 斯のお霜婆に就いて、私は片意地な性質を顯はしました。お霜婆の家でも毎年蠶を飼ひましたが、ある時私は婆さんの大切にして居る蠶に煙草の脂《やに》を嘗《な》めさせました。斯の惡戲《いたづら》は非常に婆さんを怒らせました。その時から私は婆さんと仲違《なかたが》ひして、婆さんの家の前は除《よ》けて通り、婆さんが家へ來て言葉を掛ける時でも私は口も利かなく成つて了ひました。子供ながらに私はそれを六十日の餘も續けました。
 そのうちに村の祭が來ました。私は銀さんとお揃ひで黒い半被《はつぴ》を造つて貰ひました。背中に家の紋を白く見せたものでした。火の用心の腰巾着もぶら下げました。折角《せつかく》祭の仕度が出來た、仲直りがてらお霜婆に見せて來るが好からう、と兄が言つて、嫌がる私を無理やりに背中に乘せ婆さんの家へ舁《かつ》ぎ込みました。兄に置いて行かれた後で、婆さんが何と言つても私は聞入れませんでした。私は足をバタ/\させて泣きました。婆さんも手の着けやうが無いといふ風で、一層腹を立てまして、復た私を無理やりに背中に乘せ、家の方へ送り返しに來ました。
 斯樣な風で、容易に私の心は解けませんでした。到頭お霜婆の方から私の好きな羊羹を持つて仲直りに來ました。其時私は裏の井戸のところに立つてお牧が水を汲むのを見て居りましたが、お霜婆の仲直りに來たことを聞いて、お牧に隨いて母屋の方へ行きました。斯の婆さんと以前のやうに口を利くやうに成る迄には、大分私には骨が折れました。

        四

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『もし/\龜よ、龜さんよ、
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世界のうちにお前ほど、
歩みの遲鈍《のろ》いものは無い――』
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 無邪氣な唱歌が私の周圍《まはり》に起りました。私は二人の子供を側へ呼びまして、
『さあ、お前達は二人とも龜だよ。父さんが兎に成るから。』
『父さんが兎?』と兄の子供は念を押すやうに私の顏を覗き込みました。
『アヽ、龜と兎と馳けくらべをしよう。いゝかい、お前達は龜だから、そこいらを歩いて居なくちやいけない。』
 お伽話の世界の方へ直に子供等は入つて行きました。二人とも龜にでも成つた氣で、揃つて手を振りながら部屋の内を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。
『龜さんはもう出掛けたか。どうせ晩まで掛るだらう……』
 と私は子供等に聞えるやうに言つて、『こゝらで一寸、一眠りやるか……』
 私が横に成つて、グウ/\鼾をかく眞似をすると、子供等は驚喜したやうに笑ひ乍ら、私の周圍《まはり》を※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居りました。そのうちに、私は半ば身を起して、大欠《おほあく》びしたり兩手を延ばしたりして、眠から覺めたやうに四邊《あたり》を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]しました。
『ヤ、これは寢過ぎた……』
 と私は失策《しくじ》つたやうに言へば、子供等は眼を圓くして、急いで床の間の隅に隱れました。私は龜の在所《ありか》を尋ね顏に、わざ/\箪笥の方へ行つて見たり、長火鉢の側を※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたりしました。
『兎さん、こゝよ。』
 と子供等が手を打つのを、私は聞えない振をして、幾※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りか※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りながら漸くのことで龜の隱れて居るところへ行きました。其時、子供等は勝誇つたやうな聲を揚げて、喜び騷ぎました。
 どうかすると私は斯樣な串談《じやうだん》をして、子供を相手に遊び戲れます。斯ういふ私を生んだ父は奈樣《どん》な人であつたかと言へば、それは嚴格で、父の膝などに乘せられたといふ覺えの無い位の人でした。父は家族のものに對して絶對の主權者で、私等に對しては又、熱心な教育者でした。私は父の書いた三字經を習ひ、村の學校へ通ふやうに成つてからは、大學や論語の素讀を父から受けました。あの後藤點の栗色の表紙の本を抱いて、おづ/\と父の前に出たものです。
 父の書院は表庭の隅に面して、古い枝ぶりの好い松の樹が直ぐ障子の外に見られるやうな部屋でした。赤い毛氈《まうせん》を掛けた机の上には何時でも父の好きな書籍が載せてありましたが、時には和算の道具などの置いてあるのを見かけたことも有ります。父はよく肩が凝ると言ふ方でして、銀さんと私とが叩かせられたものですが、肩一つ叩くにも只は叩かせませんでした。歴代の年號などを暗誦させました。終《しまひ》には銀さんも私も逃げてばかり居たものですから、金米糖《こんぺいたう》を褒美に呉れるから叩けとか、按摩賃を五厘づゝ遣るから頼むとか言ひました。
『享保、元祿……』
 私達は父の肩につかまつて、御經でもあげるやうに暗誦しました。
 何ぞといふと父が私達に話して聞かせることは、人倫五常の道でした。私は子供心にも父を敬ひ、畏れました。しかし父の側に居ることは窮屈で堪りませんでした。それに父が持病の癇《かん》でも起る時には、夜眠られないと言つて、紙を展げて、遲くまで獨りで物を書きました。その蝋燭を持たせられるのが私でしたが、私は唯眠くて成りませんでした。
 斯うした嚴格な父の書院を離れて、仲の間の方へ行きますと、そこには母や嫂が針仕事をひろげて居ります。私は武者繪の敷寫しなどをして、勝手に時を送りました。母達の側には別に小机が置いてあつて、隣の家の娘がそこで手習ひをしました。お文《ぶん》さんと言つて、私と同年で、父から讀書《よみかき》を受ける爲に毎日通つて來たのです。父を『お師匠樣』と呼んだのは斯の娘《こ》ばかりでなく、村中の重立つた家の子はあらかた父の弟子でした。中には隣村から通つて來るものも有りました。
 
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