私は今、町の湯から歸つて、斯の手紙のつゞきを貴女に書いて居ります。八歳《やつつ》ばかりに成る近所の女の兒が二人來て、軍艦や電車の形を餘念なく描いて居る私の子供の側で、『あねさま』などを出して遊んで居ります。そのさまを眺めると、私が隣の家の娘と遊んだのは丁度そんな幼少《をさな》い年頃であつたことを思出します。
 お文さんの許《ところ》は極く懇意で、私の家とは互に近く往來《ゆきゝ》しました。風呂でも立つと言へば、互に提灯つけて通ふほどの間柄でした。相接した裏木戸傳ひに、隣の裏庭へ出ると、そこは暗い酒藏の前で、大きな造酒の樽の陰には男達が出入して働いて居たものです。新酒の造られる頃、私は銀さんと一緒によく重箱を持つて、『ウムシ』を分けて貰ひに通ひました。この隣の『ウムシ』、それから吾家で太助が造る燒米などは、私が少年の頃の好物でした。私は又お文さんと一緒に、庭の美濃柿の熟したのを母から分けて貰ひ、それに麥香煎《むぎこがし》を添へ、玄關のところに腰掛けて食ふのを樂みとしました。
 貴女は『オバコ』といふ草などを採つて遊んだことが有りますか。お文さんはあの葉の纖維に糸を通して、機を織る子供らしい眞似をしたものです。私が裏の稻荷側《いなりわき》の巴旦杏《はたんきやう》の樹などに上つて居ると、お文さんはその下へ來てあの葉を探しに草叢の間を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。斑鳩《いかる》が來て鋭い聲で鳴いた竹藪の横は、私達がよく遊び※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つた場所です。そこで榎《えのき》の實を集めるばかりでなく、時には橿鳥《かしどり》の落して行つた青い斑《ふ》の入つた羽を拾ひました。
 私が祖母と二人で毎晩泊りに行く隱居所に對ひ合つて、土藏がありました。暗い金網戸の閉つた石段の上は、母が器物《うつはもの》を取出しに行つて、錠前をガチヤ/\言はせたところです。私は母に連れられて、土藏の二階に昇り、父の藏書を見たこともあります。古い本箱が幾つも/\積み重ねてありました。斯の土藏の下には年をとつた柔和な蛇が住んで居ました。太助などは『主《ぬし》』だと言つて、誰にも手を着けさせずに大事にした置きました。その『主』が頭を出して晝寢をして居る白壁の側、土藏の前にある柿の樹の下あたりは、矢張私達の遊び場所でした。甘い香のする柿の花が咲くから、青い蔕《へた》の附いた空《むだ》な實が落ちるまで、私達少年の心は何を見ても退屈しませんでした。
 お牧は井戸から水を擔いで土藏について石段を上つて來ます。斯の柿の樹のあるところから、更に石段を上つて母屋の勝手口へ行くまでが、彼女の水汲に通ふ路でした。その邊は舊本陣時代の屋敷跡といふことでしたが、私が覺えた頃は既に桑畠で、林檎や桐などが畠の間に植ゑてありました。隣の石垣の上には高い壁が日に映つて見えました。それがお文さんの家でした。
 私達が子供の時分には、妙に暗い世界が横たはつて居りました。多勢村のものが寄集まつて一人の眼隱した男を取圍《とりま》いて居る光景《ありさま》を一寸想像して見て下さい。激昂した衆人の祈祷の中で、その男の手にした幣帛《ぬさ》が次第に震へて來ることを想像して見て下さい。其時は早やある狐の乘移つたといふ時で、非常に權威ありげな聲で、神の御告といふものを傳へます。どうかすると斯の狐の乘移つた人は遠い森を指して飛び走つて行くことも有りました。私は又、村の小學校で、狐がついたといふ生徒の一人を目撃しました。その少年は顏色も變り手足を震はして居ました……
 斯ういふ不思議なことが別に怪まれずにあるやうな、迷信の深い空氣の中で、私は子供の時を送つたのです。何等かの自然の現象で一寸解釋のつきかねるやうなことは、知らない生物《いきもの》の世界の方へそれを押しつけてありました。山には狼の話が殘り、畠には狢《むじな》や狸が顯はれ、暗くなれば夜鷹だの狐だのの鳴聲のするのが私の故郷でした。それほど私達の幼少《をさな》い時の生活は禽獸《とりけもの》の世界と接近したものでした。蜂の種類も多くありました。殊に地蜂と言つて、五層も六層も土の中に巣を造るのは、土地で賞美される食料の一つでした。兄達は蛙を捉へて來て、その皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、地蜂の親の餌を探しに來るのを待受けたものです。蛙の肉に附けて置いた紙の片《きれ》で、それを咬《くは》へて飛んで行く蜂の行方を眺めると、巣の在所《ありか》が知れました。小鳥の種類の豐富なことも故郷の山林の特色です。黐《もち》や網で捕れる鶫《つぐみ》、鶸《ひは》の類はおびたゞしい數でした。雀などは小鳥の部にも數へられないほどです。子供ですら馬の尻尾の毛で雀の羂《わな》を造ることを知つて居ました。
 私達は、同じ年頃の子供ばかりで遊ぶ時には、まだそれほど遠く行きませんでした。でも裏の田圃道に出て、高い樹木の上の方に小鳥の囀るのを聞くのは樂みでした。田圃|側《わき》には『スイコギ』の葉を垂れたのが有りました。それを採つて、鹽もつけずに食ひました。村の學校のあつた小山の下のところには細い谷川が流れて居ます。そこへ私はお牧から借りた笊《ざる》を持つて行つて鰍《かじか》をすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色《ときいろ》の腰卷まで出して、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。
 何時の間にか私は斯の隣の家の娘と二人ぎり隱れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風《ひさしふう》の小座敷を通り拔けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。すると極りで、若い嫂が私達を探しに來ました。
 お牧、お霜婆、斯の手紙には私は主に少年の眼に映じた婦人のことを貴女に書く積りですから、その順序として幼少《をさな》い隣の家の娘のことを御話するのです。有體《ありてい》に言へば、私は女といふものに初めて子供らしい情熱を感じました。私はお文さんを堅く抱締めたこともあります。斯の子供らしさは、近所の他の家の娘にも起りました。私は三日ばかり激しい情熱に苦められたことを覺えて居ます。尤もその娘のことは直と忘れて了ひましたが……
 ある日、私はお文さんに誘はれて隣の家へ遊びに行きました。酒屋の香氣《にほひ》のする庭を通り拔けて、藏造りになつた二階の部屋へ上つて見ました。隣とはよく往來《ゆきゝ》をしましたが、そんなに奧の方まで連れられて行つたのは私には初めてです。丁度そこへお文さんの兄さんの道さんがやつて來ました。道さんはお文さんや私より二ツ三ツ年長《うへ》の少年で、村の學校でも評判な好く出來る生徒でした。
 其日まで私は夢中でお文さんと遊んで居て、第三者といふものの有ることを知りませんでした。お文さんの部屋で、道さんと一緒に成つて見て、それが解つて來ました。私は唯道さんに見られたといふだけで、何となく少年らしい羞恥を感じました。それきり私はお文さんを離れて、今度は道さんだの、それから他の男の兒と遊ぶやうに成りました。
 お文さんは相變らず吾家《うち》へ手習に通ひました。しかし私が道さん達の仲間入をするやうに成つてからは、以前のやうに彼女と親しくしませんでした。
 御承知の通り、狹い田舍では大抵の家が遠い親類の形に成つて居ます。左樣いふ家の一つに、丁度お文さんと同い年ぐらゐな娘がありました。惡戲《いたづら》好きな學校の朋輩は、その娘の名と私の名とを並べて書いて見たり、課業を終つて思ひ/\に歸つて行く頃には、杉の樹のあるお寺の坂の上あたりから、大きな聲で呼ばつたりしたものです。
 それを聞くと私は、
『糞を喰《くら》へ。』
 といふ風で、吾家を指して歸りました。
 それから九歳《こゝのつ》の秋に東京へ遊學に出掛けるまで、私の好きなことは山家の子供らしい荒くれた遊びでした。次第に私は遠く行くやうに成つて、男の友達と一緒に深い澤の方まで虎杖《いたどり》の莖などを折りに行き、『カルサン』といふ勞働の袴を着けた太助の後に隨いて、松薪《まつまき》の切倒してある寂しい山林の中を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]り、路傍《みちばた》に『酸《す》い葉《ば》』でも見つけると、それを生でムシヤ/\食ひました。太助とは、山の神の祠《ほこら》のあるところへ餅を供へにも行つたことが有ります。都會の子供などと違ひ、玩具も左樣《さう》自由に手に入りません。私は竹と半紙で『するめ紙鳶《だこ》』を手造りにすることを覺えました。それを村はづれの岡の上へ持つて行つて、他の子供と競爭で揚げました。『シヨクノ』――東京の言葉でいふ『ネツキ』は、最も私の心を樂ませた遊びです。木は不自由しない村ですから、私は太助の鉈序《なたついで》に、強さうな木の尖端《さき》を鋭く削つて貰ひました。どうかすると霜枯れた田圃側には、多勢村の少年が群がつて、斯の『シヨクノ』を土の中に打込んで遊びました。私の父はヤカマしいので、斯ういふ遊びに勝つても、表から公然と擔ぎ込む譯に行きません。左樣いふ時に、都合の好いのはお霜婆の家でした。
 銀さんと私とがいよ/\上京と定《き》まつた頃は、母の織る機がいそがしさうに響きました。母は私の爲にヨソイキの角帶を織りました。なにしろ私はまだ田舍の小學校で僅か學んだばかりで、小さな旅の鞄に金米糖を入れて呉れるからと言はれて、それを樂みに遊學の日を待つほどの少年でした。

        五

 旦那樣はじめ、お子樣がた御變りもなき由、殊に此節は幼い二人を相手に樂しい日を送つて居らるゝとか。先頃子供の許《ところ》へ贈つて下すつた御地の青い林檎は斯のあたりの店頭《みせさき》にあるものと異なり樹から※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取つたばかりのやうな新鮮を味ひました。御蔭で子供も次第に成人して參ります。函館の老爺《ぢゝ》上京の節も、孫達の顏を眺めて、稀《たま》に出て來て見ると大した違ひだと申した位です。私がたはむれに弟の方の子供を抱き上げて見て、更に兄の方を抱き上げながら大分重くなつたと申しましたら、兄の子供はさも嬉しさうに首をすくめて笑ひました。
『重くなつたと言はれるのが、そんなに嬉しいの?』
 と側に居る娘も笑ひながら言ひました。
 毎日長い黐竿《もちざを》を持つて町の空へ來る蜻※[#「虫+廷」、391−8]《とんぼ》を追ひ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して居た兄の子供も、復た/\夏休み前と同じやうに鞄を肩に掛けて、學校へ通ふやうに成りました。近所の毛筆屋《ふでや》の子で眼のパツチリとした同級生が毎朝誘ひ合せては出掛けますが、ある夕方、その子が遊びに來て門口から私の家を覗きました。瓦斯《ガス》とか電燈とかで明るい屋並の中に、吾家《うち》ではまだ洋燈《ランプ》を用ひて居ます。
『洋燈を點けてるのかい――隨分舊弊だねえ。』
 とその八つに成る毛筆屋の子が申しました。流石《さすが》都會に育つ子供はマセた口の利きやうをすると思ひました。
 八月の末から九月の初へかけて毎年のやうに降る大雨が今年は一時にやつて來て、乾き切つた町々を濡らしました。隅田川も濁つて灰汁《あく》を流したやうに成りました。狹い町中とは言ひながら、早や秋の蟲が縁の下の方でしきりに鳴きます。冷々《ひや/\》とした部屋の空氣の中でその鳴聲を聞きながら、毛筆屋の子に笑はれた洋燈の下で、私は斯の手紙を書き續けます。
 少年の私が銀さんと一緒に東京へ遊學することに成りました時は、銀さんが數へ年の十二、私が九つでした。まだ他にお文さんの二番目の兄さんも眼の療治のために同行することに成りました。
 その日も近づいた頃、銀さんは裏の梨の樹の下あたりに腰掛けて、兄貴に東京行の頭を刈つて貰ひました。村には理髮店といふものも無い時でしたから、兄貴が襷掛で、掛る布も風呂敷か何かで間に合せて、銀さんの髮を短く剪《はさ》みました。私の方はまだ一向な子供でしたから、髮も長く垂下げたまゝで可からうと言はれました。私は
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