乳母同樣に私を見て呉れました。
母や祖母などは別として、先づ私の幼い記憶に上つて來るのは斯の女です。私は斯の女の手に抱かれて、奈樣《どん》な百姓の娘が歌ふやうな唄を歌つて聞かされたか、そんなことはよく覺えて居りません。お牧は朴葉飯《ほゝばめし》といふものを造《こしら》へて、庭にあつた廣い朴の木の葉に鹽握飯《しほむすび》を包んで、それを私に呉れたものです。あの氣《いき》の出るやうな、甘《うま》い握飯の味は何時までも忘れられません。青い朴葉の香氣《かをり》も今だに私の鼻の先にあるやうな氣がします。お牧は又、紫蘇《しそ》の葉の漬けたのを筍《たけのこ》の皮に入れて呉れました。私はその三角に包んだ筍の皮が梅酸《うめず》の色に染まるのを樂みにして、よく吸ひました。
『姉さん、何か。姉さん何か。』
と言つて、私の子供は朝から晩まで娘達に菓子をねだつて居ります。どうかすると兄弟とも白い砂糖などを菓子の代りに分けて貰つて居ます。それを見て、私は自分の幼少《ちひさ》い時分に、黒砂糖の塊を舐めたことを思出しました。
私がお牧の背中に負《おぶ》さつて、暗い夜道を通り、寺の境内まで村芝居を見に行つたことは、彼女の記憶から離せないものの一つです。顏見世の晩で、長い柄のついた燭臺に照らして見せる異樣な人の顏、異樣な鬘《かづら》、異樣な衣裳、それを私はお牧の背中から眺めました。初めて見た芝居は、私の眼には唯ところ/″\光つて映つて來るやうなものでした。丁度、眞闇《まつくら》なところに動《ゆら》ぐ不思議な人形でも見るやうに。
これほど親しいお牧では有りましたが、しかし彼女の皹《あかぎれ》の切れた指の皮の裂けたやうな手を食事の時に見るほど、可厭《いと》はしいものも有りませんでした。お牧の指が茶碗の縁に觸ると、もう私は食へませんでした。子供の潔癖は、特に私には酷《はなはだ》しかつたのです。お牧ばかりでは有りません。私の直ぐ上は銀さんといふ兄貴で、この銀さんが洗手盥《てうづだらひ》を使つた後では私は面《かほ》も洗へませんでした。銀さんは又、わざ/\私を嫌がらせようとして、面白半分に盥の中へ唾を吐いて見せたりなどしたものでした。
私の生れた家には太助といふ年をとつた家僕も居りました。この正直な、働くことの好きな、獨身者《ひとりもの》の老爺《ぢいさん》は、まるで自分の子か孫のやうに私を思つて呉れました。恐らく太助が私を愛して居たことは、お牧の比では無かつたのでせう。不思議にも、それほど思つて呉れた老爺と、朝晩抱いたり負《おぶ》つたりして呉れたお牧と、何方《どちら》を今でも思出すかといふに、矢張私はお牧の方に言ひ難いなつかしみを感じます。でも私は太助が好きでした。爐邊は廣くて、いつも老爺の坐る場所は上《あが》り端《はな》の方と定《きま》つて居りましたが、そこへ軟かい藁を小屋から運んで來まして、夜遲くまで私の穿く草履などを手造りにして呉れたのも、この太助です。それから大きな百姓らしい手で薪を縛る繩などをゴシ/\と綯《な》ひながら、種々なお伽話や、狢《むじな》の化けて來た話や、畠の野菜を材料《たね》にした謎などを造つて、私に聞かせるのを樂みにしたのも、この太助です。それを聞いて居るうちに私は眠くなつて、老爺の側で寢て了ふことも有りました。
太助の働く小屋は裏の竹藪の前にありました。可成《かなり》廣い屋敷の内でしたから、そこまで行くには私は梨、林檎などの植ゑてある畠の間を通り、味噌藏の前を過ぎ、お牧がよく水汲に行く大きな井戸について石段を降りますと、その下の方に暗い米藏が有りまして、それに續いて松薪だの松葉の焚附だのを積重ねた小屋が有りました。太助は裏山の方から獨りで左樣いふものを運んで來るのでした。その小屋の内で、一日薪を割る音をさせて居ることも有りました。
小屋に面して古い池が有りました。棚の上の葡萄の葉は青く淀んだ水に映つて居りました。石垣のところには雪下《ゆきのした》などがあの目《ま》ばたきするやうな白い小さな花を見せて居りました。そこは一方の裏木戸へ續いて、その外に稻荷が祭つてあります。栗の樹が立つて居ます。栗の花が枝から垂下る時分には、銀さんが他の大きな子供と一緒にあの枝から栗蟲を捕つて來たものですが、それを踏み潰すと、緑色の血が流れます。栗蟲の身《からだ》から、銀さん達は強い糸の材料を取つて、魚を釣る道具に造りました。その原料を酢に浸して、小屋の前で細長い糸に引延して乾すところを、私はよく立つて見て居りました。栗の殼《いが》が又、大きく口を開《あ》く頃に成りますと、毎朝私達は裏の方へ馳附《かけつ》けて行つたものです。そして風に落された栗を拾はうとして、樹の下を探し※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたものです。それを人の知らない中に集めて置いて、小屋の前で私に燒いて呉れたり、母屋《おもや》の爐邊の方まで見せに持つて來て呉れたりしたのも、太助でした。
何かにつけて私はイヂの汚ないやうなことばかり覺えて居ります。けれども、ずつと年をとつた人と同じやうに、少年の私にはそれが一番樂しい欲でした。斯樣なことを私は最初に貴女に御話するからと言つて、それを不作法とも感じません。種々な幼少《をさな》い記憶がそれに繋がつて浮び揚つて來ることは、爭へないのですから。序《ついで》に、太助が小屋から里芋の子を母屋の方へ運んで行きますと、お牧がそれに蕎麥粉を混ぜて、爐の大鍋で煮て、あの皹《あかぎれ》の切れた手で芋燒餅といふものを造《こしら》へて呉れたことも書いて置きませう。芋燒餅は、私の故郷では、樂しい晩秋の朝の食物《くひもの》の一つです。私は冷い大根おろしを附けて、燒きたての熱い蕎麥餅を皆なと一緒に爐邊で食ふのが樂みでした。口をフウ/\言はせて食つて居るうちに、その中から白い芋の子が出て來る時などは、殊に嬉しく思ひました。
三
昨日《きのふ》、一昨日《をとゝひ》はこの町にある榊神社の祭禮で、近年にない賑ひでした。町々には山車《だし》、踊屋臺などが造られ、手古舞《てこまひ》まで出るといふ噂のあつた程で、鼻の先の金色に光る獅子の後へは同じ模樣の衣裳を着けた人達が幾十人となく隨いて、手に/\扇を動かし乍ら、初夏の日のあたつた中を揃つて通りました。それ獅子が來た、御輿が來たと言つて、子供等は提灯の下つた家の門を出たり入つたりしました。
『御祭で、どんなに嬉しいのか知れません――』
と姉さん達は斯の子供等のことを言ひましたが、兄の方は肩に掛けた襷の鈴を鳴らして歸つて來て、後鉢卷などにして貰ひ、黄色い團扇《うちは》を額のところに差して、復た町の方へ飛び出して行くといふ風でした。提灯に蝋燭の火が映る頃から、二人とも足袋跣足《たびはだし》にまで成つて、萬燈《まんどう》を振つて騷ぎ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。
私も祭らしい日を送りました。町に響く太鼓、舁《かつ》がれて通る俵天王《たるてんわう》、屋臺の上の馬鹿囃《ばかばやし》、野蠻な感じのする舞――すべて、子供の世界の方へ私の心を連れて行くやうな物ばかりでした……
毎年のやうに私は出して着る袷が二枚あります。母の手織にしたもので、形見として殘つて居るのは最早それだけです。私は十五年の餘も大切に保存して居ります。それが又、私の持つて居る着物の中で、一番着心地の好い着物なのです。短い袷時に、私はそれを取出すのを樂みにして居りますが、それを着た時は妙に安心して居られるやうな氣もします。その中一枚はあまり見苦しく成つたと言はれて、今年からは寢衣《ねまき》にして着ることにしました。
私の母は斯うした手織縞をよく丹精したものです。私が子供の時分に着た着物は大概母の織つたものでした。私の生れた家は舊本陣と言つて、街道筋にあつて、ずつと昔は大名などを泊めたのですから、玄關も廣く、その一段上に板の間がありました。そこから廣い部屋々々に續いて居ました。その板の間の片隅に機《はた》が置いてありました。私が表の方から古い大きな門を入つて玄關前の庭に遊んで居りますと、母が障子の影に腰掛けて錯々《せつせ》と梭《をさ》の音をさせたものでした。
頬の紅い、左の眼の上に黒子《ほくろ》のあつた母のことを言へば、白い髮を切下げて居た祖母《ばゝ》のことも御話しなければ成りません。祖母は相應に名のある家から嫁《とつ》いで來た人で、年はとつても未だシツカリして居りました。尤も私の覺えてからは腰は最早すこし曲つて居りましたが。一體、私は七人の姉弟《きやうだい》のうちで一番の末の弟で、私の直ぐ上が銀さん、それから上に二人姉があつたさうですが、斯の人達は幼少《ちひさ》くて亡くなりましたさうです。その上に兄が二人あつて、一人は母の生家《さと》の方へ養子に參りました。一番|年長《うへ》が姉です。姉は私がまだ極く幼少い時に嫁に行きましたから、殆んど吾家《うち》に居たことは覺えません。長兄の結婚は漸く私が物心づく頃でした。嫂《あによめ》を迎へてから、爐邊は一層賑かで、食事の度に集つて見ると可成大きな家族でした。その頃から私は祖母に隨いて、毎晩隱居所の方へ泊りに行くやうに成りました。そこは井戸に近い二階建の離れ家で、階下《した》は物置やら味噌藏やらに成つて居ました。暗いところを行くのですから、私は祖母と一緒に提灯つけて通ひました。
私の家では、生活《くらし》に要る物は大概は手造りにしました。野菜を貯へ、果實《このみ》を貯へることなどは、殆んど年中行事のやうに成つて居ました。母は若い嫂を相手にして、小梨の汁などで糸をよく染めました。茶も家で造りました。茶摘といへば日頃出入の家の婆さんまで頼まれて來て、若葉をホイロに掛けて揉む時には男も一緒に手傳ひました。玄關前の庭の横手には古い椿の樹がありましたが、その實から油をも絞りました。私は母や嫂の織つた着物を着、太助の造つた草履を穿いて、少年の時を送つたのです。
例のお牧に連れられて、映し繪を見に行つた晩のことでした。旅の見世物師が來て、安達《あだち》が原《はら》だの、鍋島の猫騷動などを映して見せ、それでいくらかの木戸錢を取りました。障子に映つた鬼婆、振揚げた出刃庖丁、後ろ手にくくし上げられた娘、それから老女に化けた怪しい猫の幻影《まぼろし》などは、夢のやうな恐怖を誘ひました。家へ戻つて行つても、私は安心しませんでした。
『祖母樣《ばゝさま》、お前さまは眞實《ほんたう》の祖母樣かなし……一寸|背後《うしろ》を向いて見さつせれ……』
『これ、何を馬鹿言ふぞや。』
母や嫂は側に居て笑ひました。その頃から私は『人浚《ひとさら》ひ』に浚はれて行くといふ恐怖なども感じて、祖母と二人ぎり寂しい隱居所の方へ行く時には、寢床の中に小さくなつて寢たことも有りました。お化より何より、『人浚ひ』が私には一番恐しかつた。それは夜鷹の鳴く日暮方にでも通るもので、一度浚はれたら、兩親の許へ歸つて來ることが出來ないやうにも思はれました。
すこし見慣れないものが有ると、私は子供心に眼をとめて見ました。そして不思議な恐怖に襲はれることが有りました。太助がよく働いて居た木小屋の前を通り拔けて、一方の裏木戸の外へ出ますと、そこには稻荷が祭つてあります。葉の尖つた柊《ひゝらぎ》、暗い杉、巴丹杏《はたんきやう》などが其邊に茂つて居まして、木戸の横手にある石垣の隅には見上げるほど高い枳殼《からたち》が立つて居ました。あの棘の出た幹の上の方に、ある日私は大きな黒い毛蟲の蝶を見つけました。田舍で荒く育つた私の眼にも、その蝶ばかりは薄氣味の惡いほど大きかつた。そして毒々しい黒い翅を震はせて居ました。私は小石を拾つて投げつけようとしましたが、恐ろしくなつて、そのまゝ母屋の方へ逃げて歸つたことが有りました。
斯の手紙を書きかけて置いて、私は兄弟の子供を連れながら河岸の方まで歩きに行つて來ました。榊神社の境内まで行くと、兄の方はぷいと腹を立てゝ家の方へ歸つて了ひましたから、私は弟の方だけ連れて、河岸へ出ました
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング