には先生の置き忘れた金錢《かね》がある。その金錢を十錢許り盜んだものがある――この盜みをしたものが自分だ……』
 金錢を置き忘れる位の老先生のことですから、斯の私の行ひも別段詮議されずに終つたのでせう。慚愧《ざんき》の情はずつと後に成つてその年老いた漢學者の沒する頃までも續いて居ました。私が老先生の靈前へと思つて、香奠を封じた手紙を書いた時にも、活々と胸に浮んだのはそのことでした。假令《たとへ》金錢は僅かでも、私には全く左樣いふ心を起したことが無いとは言へないのですから。
 金錢はあまり欲しいとは思はなかつたが、品物は欲しいと思つた。私は斯ういふ言ひ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]しをして自分の少年時代に爲たことを辯解しようとも思ひません。取りましたから取りました。どういふものか、ふいとそんな量見に成りました。それが私の幼い日の中で掻消すことの出來ない記憶の一つとして殘つて居るのです。
 それから同じ物語の續きとして、もう一つ私は書きにくいことを書きました。
『尾張町の夜店には野菜の市があつて、家の人が買ひに出掛けたものだ。自分もよく隨いて行つた。そこには少年の眼を引
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