可羞《はづか》しさうにして笑つて、
『知らない。』
 と言ひ放ちながら、急に家の方へ馳出《かけだ》して行つて了ひました。
 恐らく斯の兒の強情なところは私の血から傳はつたものでせう。しかし私は斯の兒ほど泣き易くはありませんでした。丁度弟の方の子供ぐらゐな年頃のことでした。ある晩、私は遊友達の問屋の子息《むすこ》と喧嘩して、遲くなつて家の方へ歸つて行きました。叱られるなといふことを豫期しながら。果して、家の門を入つて田舍風な小障子のはまつた出入口のところまで行くと、私が問屋の子息を泣かせたことは早や家の方へ知れて居りました。やかましい問屋のお婆さんがそれを言附けに捩込《ねぢこ》んで來たといふことでした。で、私は懲らしめの爲に、そのまゝ庭に立たせられました。薄暗い庭から見ると、玄關の方も裏口の方も皆な戸が閉つて、唯小障子の明いたところだけ燈火《あかり》が射して居る。私は夏梨の樹の下に獨りで震へながら、家のものが皆な爐邊《ろばた》に集つて食事するのを眺めました。日頃默つて居る兄の顏などは、私の仕たことに就いて非常に腹でも立てたやうに、餘計に畏《おそろ》しく見えました。其晩に限つて、誰も救ひに
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