しい夏の晩などは私もよく豐田の小父さんに隨いて歩きに出掛けましたものです。こゝで私は物に好き嫌ひの激しい少年時代のことを一寸書き添へようと思ひます。その情の激しさは淡泊で洒落《しやらく》な大人の思ひもよらないことが有ると言ひたい位であります。私達の着る物でも、食べる物でも、すべての上にそれが表れて居ます。例へば芋の莖の酢煮《すに》に青豆を添へたのは、いかにも夏らしい總菜で、豐田さんの家でもよく造りましたし、今では私は食物に嫌ひな物があまり有りませんから、膳に上れば食べもします。ところが私の子供の時分には、どうしてもそれが食べられませんでした。
斯の好き嫌ひの激しい子供らしさから、ある時、私はめつたに怒つたことの無い豐田の小父さんを怒らせました。丁度あの海水浴に冠るやうな縁の廣い麥藁帽子が流行つて來た時でした。小父さんの積りでは、輕くて少年の冠り物に好いと思つたのでせう。私にも一つ買つて遣らうと言つて呉れました。私の心では、どうしても彼の夏帽子を冠る氣に成れない。それよりか帽子なしの方がまだ好ましい。何故そんなら彼の流行の輕い麥藁帽が嫌ひだかと言ふに、それは私には説明が出來ません。唯、蟲が好かなかつたまでです。そこで私は小父さんに言出しかねて、尾張町邊の夜見世の前へ誘はるゝまゝに隨いて行きました。『どうだ、是は貴樣に丁度好からう』と小父さんは店先で擇びまして、私の頭に合ふか奈何《どう》かと冠せて見ました。私は内々買つて貰ひたくないのですから、これはすこし大きいの、いやこれは堅過ぎるの、種々なことを並べて、到頭強情を言ひ通して了ひました。
『貴樣に帽子を買つて遣ることは懲りた』と人の好い小父さんが何日《いつ》に無い調子で言ひましたが、それほど少年時代の好き嫌ひは大人の心に通じかねる、名のつけやうの無いものかとも思ひます。
斯の手紙を書きつゞける前に、年老いた姉を見舞ふため、雪深い郷里の方まで一寸行つて來ました。姉のことは既に貴方に御話しました。あの若かつた姉が今年は最早五十八歳です。七人あつた姉弟《きやうだい》のうち姉は一番の年長者、私はまた一番末の弟にあたります。
十
斯の手紙を書き初めたのは昨年四月のことでした。私も長々と話し續けました。少年の日――私達に取つて二度とは來ない――その時代のことで御話すべきことは、まだ/\澤山あるやうに思ひます。書生を愛した豐田さんの家には幾人《いくたり》となく身を寄せた同郷の青年があつて、その一人々々の言つたこと爲したことが幼い私の上に働きかけたことや、あるひは豐田さんの家は一頃それらの人達の一小|倶樂部《クラブ》を見る趣を成して夜になると私も土藏の中の部屋に机を並べ、同じ洋燈《ランプ》の下に集り、話を聞き、一緒に勉強し、どうかすると制《おさ》へきれないほどの居眠りが出て年長《としうへ》の人達からよく惡戲されたことなど、御話したいと思ふことはいろ/\ある。私は自分の机の上――墨汁《すみ》やインキで汚れたり小刀で刳《ゑぐ》り削られたりした机の上の景色、そこに取出す繪、書籍、雜誌などのことを精《くは》しく御話して見たら、それだけでも自分の少年時代を引出すに十分だらうとは思ひます。私は貴女に年老いた漢學者のことを御話しましたらう。豐田さんの家の奧二階でしばらく暮したあの老夫婦のこと、私が英學を始めた時分のこと、それから私の十三の年に父は郷里の方で死にましたこと、その前に父から私に寄《よこ》した手紙の中には古い歌などを引合に出して寸時も忘れることの出來ないといふやうな濃情の溢れた言葉が書き連ねてあつたこと、それからそれへと幼い日のことを辿つて見ると書くべきことは多くありますが、こゝで筆を止めます。
私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れるとは言へないまでも、すくなくも獨立の出來る頃まで斯の手紙を持つて行きたいと思ひました。婦人に對する少年らしい一種の無關心――左樣いふ時が一度私には來ました。私は側目《わきめ》もふらずに、錯々《せつせ》と自分の道を歩き始めた時がありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き始めた最初の目的は達したとも言へません。しかし今はそれをする時がありません。
私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も斯の家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の仕度やらゴチヤ/\した中で、子供は皆な寢沈まりました。
[#地から2字上げ]「微風」――終
底本:「藤村全集第五卷」筑摩書房
1967(昭和42)年3月10日
前へ
次へ
全24ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング