玄關の小部屋の縁の下へそツと藏つて置くことにしました。土藏造で床も高く出來て居ましたから。斯の人の知らない倉庫を暮の煤拂《すゝはらひ》には開けなければ成りませんでした。その時は實はハラ/\しました。
私の生れた家では子供に金錢《おかね》は持たせない習慣でした。それが癖に成つて、私は東京へ出て來てからも自分で金錢を所有したことは少く、餘分なものは家の人に預けました。時とすると豐田さんへ來る客から土産がはりとして包んだ金錢を貰つたことも有りましたが、それよりか珍しい風景の彩色した版畫でも貰つた時の方が私には難有かつたのです。私は子供の時分から金錢に對しては淡泊な方でした。で、私は唐辛の葉の煮たのなどは摘んでも、他《ひと》の所有する金錢を欲しいといふ心は起りませんでした。ところが、それが全く私に無いとは言へません。有ります。私は別に何を買ひたいでは無し、それで居ながら不圖さういふ心に成つたのです。その一時の出來心で私の爲たことは、知られずに濟んだとは言へ、今だに私は冷汗の流れるやうな心地《こゝろもち》が殘つて居ます。
ある物語の中に、私はあの當時のことを思出して書きつけて見たことも有りました。
『小母の寢床はもう其時分から敷いて有つた。すこし小母が氣分の好い時には、池の金魚の見えるところへ人を集めて、病を慰める爲に花札《はな》を引いた。其時自分は雨だの日の出だのを畫いてある札を持つて見て、「青たん」とか「三光」とかいふことを始めて習つた。よく臺所の方では、小母の爲に牛肉のソップを製《こしら》へた。儉約な祖母《おばあ》さんはそのソップ渣《かす》へ味を附けて自分等にも食はせたが、終《しまひ》にはそのにほひが鼻へ着いて、誰も食ふ氣に成れなかつた。仕方が無いから、祖母さんはそれを乾して三時の茶といふと出した。そのソップを製へる爲に生の牛肉を細かく賽《さい》の目《め》に切つて、口の長い大きな徳利《とくり》へ入れる。是がまた一役で、氣の長いものでなければ勤まらなかつた。丁度奧の二階には、小父の親戚に當る年老いた漢學者が親子連で來て世話に成つて居て、結句牛肉の切り役は斯の温厚な白髮の老先生に※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つた。老先生が眼鏡を掛て、階下《した》で牛肉を切つて居る間は、奧の二階は閑寂《しん》として居る。そこには先生の書籍《ほん》が置並べてある。机の上には先生の置き忘れた金錢《かね》がある。その金錢を十錢許り盜んだものがある――この盜みをしたものが自分だ……』
金錢を置き忘れる位の老先生のことですから、斯の私の行ひも別段詮議されずに終つたのでせう。慚愧《ざんき》の情はずつと後に成つてその年老いた漢學者の沒する頃までも續いて居ました。私が老先生の靈前へと思つて、香奠を封じた手紙を書いた時にも、活々と胸に浮んだのはそのことでした。假令《たとへ》金錢は僅かでも、私には全く左樣いふ心を起したことが無いとは言へないのですから。
金錢はあまり欲しいとは思はなかつたが、品物は欲しいと思つた。私は斯ういふ言ひ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]しをして自分の少年時代に爲たことを辯解しようとも思ひません。取りましたから取りました。どういふものか、ふいとそんな量見に成りました。それが私の幼い日の中で掻消すことの出來ない記憶の一つとして殘つて居るのです。
それから同じ物語の續きとして、もう一つ私は書きにくいことを書きました。
『尾張町の夜店には野菜の市があつて、家の人が買ひに出掛けたものだ。自分もよく隨いて行つた。そこには少年の眼を引き易いやうな繪本を商ふ店もある。美しい表紙畫の草雙紙が數多《あまた》そこには並べてある。何がなしにその草雙紙が欲しく成つて、何度も/\其前を往つたり來たりして、終《しまひ》に混雜に紛れて一册|懷中《ふところ》に入れた少年がある――斯の少年が、自分だ。其時自分は捕まりさうにして、命がけで逃げた。草雙紙は置場所に困つて、溝《どぶ》の中へ裂いて捨てた。もし彼《あ》の時捕つたら、自分の生涯は奈何《どん》な風に成つて行つたらう……』
左樣です。確かに斯ういふことも有りました。ナポレオンの傳記を讀んで感激の涙を流すといふことと、夜見世に並べてある草雙紙を懷中に入れるといふことと、それが私の少年時代には同時に起つて來たのです。私は自分の爲たことに恥ぢ恐れて、二度とそんな行ひはすまいと心に堅く誓ひました。
斯ういふことを貴女に書き送るとは自分の愚かを表白するに當ります。けれども好いと思ふことでも惡いと思ふことでも、唯それだけでは私には漠然としたものでした。愚かな私は何事でも自分で行《や》つて見た上でなければ、眞實《ほんたう》にその意味を悟ることが出來ませんでした。
銀座の夜見世と言へば、夜風の樂
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