うして夫婦ともナカ/\の洒落者だとか、小母さん達は窓側で互の眼前《めのまへ》を通る藝人の噂をしました。町々の子供等ばかりでなく、大人まで爭つて呼びとめては買つたものでした。それパン屋が來たと言へば、窓の外の狹い往來は人だかりがして、何となく私の幼い心をそゝりました。
豐田さんの家である年の節句か何かの折に草餅を造つたことをも、私はこゝに書きつけて置きたいと思ひます。何故といふに、田舍に居る身内のものから遠く離れた私には、左樣いふ草餅の香氣《にほひ》などを嗅ぐほど可懷《なつか》しい思をさせるものが有りませんでしたから。尤も、草餅と言つても、蓬《もちぐさ》のたりない都では田舍で食べるほど青いシコ/\としたのは出來ません。これでもつと草が多く入つて居て、餅の合せ目から田舍風のアンコが這出したら、そんなことを思ひました。
臺所に近い奧の部屋ではお婆さんや小母さんが下婢《をんな》を相手にしてその草餅を造《こしら》へる、私は出來たのを重箱に入れて貰つて近所へ配りに行きました。見ると、お婆さん達は捏《こ》ねた餅を手頃にちぎつては、それを掌で薄べたく圓く延ばして居りますから、
『お婆さん、僕の田舍では其樣な風にしません。』
と私は餘計なことながら、郷里《くに》の方で母などが造つて居たのを思出して、母は小皿にちぎつた餅を宛行《あてが》つてその上で延ばすといふ話をしました。
お婆さんは成程とは思つたやうでしたが、
『えゝ、斯の子は――ほんとにベンカウなことを言ふ子だ。』
と叱るやうに言つて見せました。『ベンカウ』とは矢張私達の田舍で使ふ言葉で、まあ生意氣と言つたら近いかも知れませんが、すつかり意味の宛嵌《あては》まる東京言葉は一寸思ひ當りません。
私の學資は毎月極めて郷里《くに》から送つて寄《よこ》して呉れるといふ風には成つて居ませんでした。これには私は多少の不安を感じて居ました。すると、ある時のこと長兄の許から手紙が來て、金は纏めて豐田の小父さんの方へ送つたから買ひたい物があらば買へ、苦しい中でも貴樣達は東京へ出してあるのだから、その積りで勉強せよ、と言つて寄しました。幾度《いくたび》私はその手紙を繰返し讀んで見て、兄の言葉に勵まされたか知れません。丁度、故中村正直氏の書いたナポレオンの小傳が私の手に入りました。傳記らしい傳記で私が初めて讀んだのは恐らくその小册子です。中でも、ナポレオンの青年時代のことは酷く私の心を動かしました。私は例の日光の射し込む窓の下で獨りその小傳を開いては感激の涙を流すやうに成りました。
斯ういふ物に感じ易い私の少年時代が一方では極く無作法な荒くれた時でも有りました。姉がまだ東京に居ました頃、あの家の二階の袋戸棚の前へ幼い甥を呼びつけて、その戸棚の中に入れて置いた燒饅頭《やきまんぢゆう》が何日《いつ》の間にか失くなつたことを責めたことが有りました。私はそれを見て、心の中で甥の行ひを笑つたり憐んだりしました。どうでせう、その私が豐田さんの家へ來てからは甥を笑へなく成りました。私は白状します、どうかすると私はお腹が空いて空いて堪らないことが有りました。さういふ時には我知らず甥と同じ行ひに出て、煮付けた唐辛《たうがらし》の葉などはよく摘《つま》みました。私は又、自分の空腹を滿す爲でも何でもないのに、酒屋へ使に行つた歸りなどには往來で酢の罎を傾《かし》げて、人知れずそれを舐めて見たりしました。
注意深い豐田のお婆さんでも左樣々々は氣が附きません。私はそれを好い事にして、ある日、酒屋から酒を買つて戻りました。煮物にでも使ふのでしたらう。小父さんはあまり酒をやらない方でしたから。私が持つて歸つた罎の酒は減つて居ました。
『高い酒屋だねえ。』
とお婆さんに言はれた時は、思はず私は紅く成りました。
午後の三時は毎日私の樂みにした時でした。物のキマリの好い豐田さんの家では、三時といふと必《きつ》と煎餅なり燒芋なりが出ました。あのウマさうに氣《いき》の出るやつを輪切にした水芋か、黄色くホコ/\した栗芋かにブツカる時には殊に嬉しく思ひました。夏にでも成ると、土藏の廂間《ひあはひ》から涼しい風の來るところへ御櫃《おひつ》を持出して、その上から竹の簾《すだれ》を掛けて置いても、まだそれでも暑さに蒸されて御櫃の臭氣《にほひ》が御飯に移ることがあります。儉約なお婆さんは、それを握飯《むすび》に丹精して、醤油で味を附けまして、熱い火で燒いたのをお茶の時に出しました。いかに三時が待遠しくても、終《しまひ》にはその握飯の微かな臭氣が私の鼻に附いて了ひました。折角《せつかく》丹精して造《こしら》へることを思ふと、お婆さんの氣を惡くさせたくない。私の癖として、人が惡い顏をするのを見ては居られません。そこで私は握飯の遣り場に窮《こま》つて、
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