へる餘裕はありませんでした。何でも早く六ちやんの家を辭して豐田さんの方へ父を連れて歸りたいと思ひました。
 父は私の通ふ學校を見たいと言ひますから、數寄屋河岸の方へも案内しまして赤煉瓦の建物を見せました。河岸に石の轉がつたのが有りましたら、子供の通ふ路に斯ういふ石は危いと言つて、父はそれを往來の片隅に寄せたり、お堀の中へ捨たりするやうな人でした。
 父が逗留の間に舊尾州公の邸をも訪ねました。その時、私も父に伴はれて、以前の尾張の殿樣といふ人の前に出ました。父は私が學校で作つた鉛筆畫の裏に私の名前などを書いたものを尾州公の前に差出しました。私は廣い御座敷に身を置いて燈火《あかり》の影で大人の話をするのを聞いたのと、歸りに御菓子を頂いて來たのとその他に今記憶して居ることも有りません。父は又淺草邊の鹿《か》の子《こ》といふ飮食店へも私を連れて行つて、そこの主人《あるじ》や内儀《かみ》さんに私を引合せました。
『斯樣なお子さんが御有りなさるの。』と内儀さんは愛相よく言つて、父と私の顏を見比べました。私は内儀さんばかりでなく多勢の女中からジロ/\傍へ來て顏を見られるのが厭でした。鹿の子の主人は地方出で、父とは懇意な人でした。
 その時の私の心では、私は矢張郷里の山村の方に父を置いて考へたいと思ひました。私は一日も早く父が東京を引揚げて、あの年中|榾火《ほたび》の燃えて居る爐邊の方へ歸つて行つて、老祖母《おばあ》さんやお母《つか》さんや、兄夫婦や、それから太助などと一緒に居て貰ひたいと思ひました。久し振の上京で、父は東京にある舊い知人を訪ねたり、亡くなつた人の御墓參をしたりしまして、間もなく郷里の方へ戻つて行きましたが、後で國から出て來た人の話には、餘程私が嬉しがるかと思つて上京したのに、子供には失望したと言つて、父が郷里へ戻つてから嘆息して他《ひと》に話しましたとか。斯の手紙で私が今貴女に御話して居るのは、銀座の大倉組の角に點《つ》いた白い強い電燈の光が東京の人の眼に珍しく映つた頃のことです。尾張町の角にあつた日々新聞社の前に花瓦斯《はなガス》の點く晩などは、私は豐田さんの家の人達に隨いて、明るい夜の銀座通を歩きに行きましたものです。

        九

 豐田さんの家で可愛らしい赤兒《あかんぼ》が生れるまでは、私は土藏の中の部屋でお婆さんの側に寢かされましたが、赤兒が生れてからはお婆さんの代りに下婢《をんな》が土藏の方へ來て寢ることに成りました。とても子供があるまいと言はれて居た豐田の小母さんは男の兒が生れたので、急に家の内の光景《さま》が變つて賑かに成つて來ました。それにしても下婢と同じ部屋に私を寢かして可からうか、と注意深いお婆さんがそれを言ふと、
『お婆さん――あんな子供ぢや有りませんか。』
 と小父さんが笑ひました。
 私は奧の部屋の炬燵にあたりながら、眠たい耳に斯の話を聞いて居ました。小父さんの言ふ通り、私はまだ子供でした。でもお婆さん達の話が分らないほどの子供では有りませんでした。
 こゝまで書きつけて來ますと、豐田さんの家へ來て奉公して居た種々な下婢が私の眼に浮びます。あるものは目見えに來たかと思ふと直に暇を取つて行つたのもありましたし、あるものは又隨分長いこと好く勤めたのもありました。左樣いふ下婢と私との隔りは最早あのお霜と私との隔りでは無くなつて來ました。私には無智な彼等の言ふことや爲ることが分つて來ました。私が玄關の小部屋に机を控へて勉強して居りますと、彼等の一人が主人の子供を抱いて來て、窓の外を見せながらよく當時の流行唄《はやりうた》を歌ひました。そんな唄を歌つて居ることが奧へ知れようものなら、直に御目玉を頂戴するほど豐田さんの家では嚴しかつたものですから、それを主人に聞えないやうに、窓のところへ來ては歌ひましたのです。
 私は誘惑され易い年頃になりました。もし私に性來の臆病と、一種の自尊心とが無かつたら、早く私は少年らしい好奇心の捕虜《とりこ》と成つたかも知れません。で、私は下婢が傍へ來て樂しさうに歌ふみだらな流行唄などに耳を傾て、氣は浮々とさせることを感じながら、一方には左樣いふ女と碌に口も利かないほど彼等を憎み蔑視《さげす》むやうな心を持つて居ました。
 私がよく行く窓の外には種々雜多なものが通りました。一頃|流行《はや》つたパン屋が太鼓を叩いて來ますと、奧の方に居る小母さん達までその音を聞きつけて、往來の見える窓側の鐵の格子から眺めました。
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『パン屋のパン、
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木村屋のパン――』
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 風變りなパン屋夫婦の洋裝、太鼓や三味線の音などは人の氣を浮き立たせました。あのパン屋はもとは相應な官吏であつたとか、細君はそれ者《しや》の果だとか、ど
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