性で、左樣いふ道具を使つて餘念もなく箱を組立てたり板を削つたりする間がまた小父さんの一番樂しみな心の落ち着く時のやうに見えました。私は小父さんから厚い木の片で『コンパス』の入物を造つて貰つたことも有ります。
 奧座敷の縁先にはタヽキの池が有りました。そこには澤山金魚が飼つて有りまして、姉さんも氣分の好い時にはその縁先に出て、長い優美な尻尾を引きながら青い藻の中に見え隱れする魚のさまなどを眺めては病を慰めたものでした。小父さんは好く身體の動く人でしたから、その池に臭い泥でも溜ると、一番先きに立つて水を替へたり掃除をしたりしました。左樣いふ時には私も小父さんの手傳ひで手桶に半分ばかり入れた水を裏の井戸から池の方へ運ぶことが出來るやうに成りました。
 家の裏は丁度銀座通の裏側にあたる路地でした。もし私が父に勸められたやうに畫家にでも成つて居たら、彼樣いふ路地を畫いたらうと思ふほどゴチヤ/\した面白味のあるところでした。家々の下婢《をんな》が水汲みに集るのもそこでしたし、番頭や職人などが朝晩に通ふのもそこでしたし、豐田さんの家の裏には小屋なども造りつけて有りまして時々薪を割る音のするのもそこでした。まるで私は小鳥かなんどのやうに、唯譯もなくその間を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。時には路地の奧の方までも入つて行つて、活版屋の裏に堆高《うづだか》く積重ねてある屑の中から細い活字を拾ふのを樂しみにしました。丁度私が國に居た頃、榎《えのき》の實を拾ひに行つて其下に落ちて居た橿鳥《かしどり》の羽を見つけたやうに。
 話はいろ/\に飛びますが、こゝで私は子供と着物のことをすこし書きつけたいと思ひます。少年時代の神經質は妙に着物などにも表はれると思ひます。私はどつちかと言へば頓着しない方で、着ろと言はれる物を着て學校へ通ひました。羽織や袴がすこしぐらゐ汚れても着慣れた物でさへあれば滿足しました。豐田のお婆さんは私の學校の方の成績を褒めまして、ある時私のために黒ずんだ黄八丈の羽織を仕立て直して呉れました。それは國の方に居る母が手織にした物でした。私が持つて居る羽織では上等の物でした。ところが黄八丈などを着て學校の式に出る友達は一人も居ません。私はそれを思ふと、何となく人に嘲戲《からか》はれさうな氣がして、氣羞かしくて堪りませんでした。お婆さんはわざ/\式に間に合はせる積りで夜業《よなべ》までして仕立て直して呉れたのでしたが、到頭私は強情を言ひ張つて、その羽織を着るだけは許して貰つたことが有りました。
 父が私に逢ふのを樂みにして一度上京しましたことは、私に取つて忘れ難いことの一つです。何故かと言ひますに、それぎり私は父に逢ひませんから。
 豐田さんの家の奧の二階は廣い靜かな座敷で、そこに父は旅の毛布《ケツト》やら荷物やらを解き、暫時《しばらく》逗留しました。豐田のお婆さんの亡くなつた連合《つれあひ》だの、親戚にあたる年老いた漢學者だの、其他豐田さんの身のまはりの人で父の懇意な人は澤山ありまして、國に居る頃は父もまだ昔風に髮を束ねまして、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れて居るやうな人でしたが、その旅で名古屋へ來て始めて散髮に成つた話などを私に聞かせました。私は心の中で、お父さんも大分開けて來たと思ひました。
『あれは彼樣《あゝ》と、これは斯樣《かう》と――』
 そんなことを父はよく獨語《ひとりごと》のやうに言つて、自分の考へを纏めやうとするのが癖でした。
 奧の二階からは廣い物乾場を通して町家の屋根、窓などが見られます。父は旅の包の中から桐の箱に入つた鏡を取出しましたから、
『お父さん、男が鏡を見るんですか。』
 と私が尋ねますと、父は微笑んで、鏡といふものは男にも大切だ、殊に斯うして旅にでも來た時は、自分の容姿《ようす》を正しくしなければ成らないと私に話しました。
 父は隨分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を殘しましたが、しかし子としての私の眼には面白いといふよりも氣の毒で、異常なといふよりも突飛に映りました。斯の上京で私はそれを感じたのでした。私の學校友達の六ちやんの家へも父が訪ねて行かうと言ひますから、私は一方には嬉しく思ひながら、一方には復た下手なことをして呉れなければ可いがと唯そればかり心配して、三十間堀の友達の家へ案内して行きました。六ちやんの家ではお母さんが後家さんで六ちやん達を育てゝ居ました。訪ねて行くと、先方《さき》でも大層喜んで呉れましたが、別れ際に父は六ちやんのお母さんからお盆を借りまして、土産がはりに持つて行つた大きな蜜柑をその上に載せました。やがてツカ/\と立つて、その蜜柑を佛壇へ供へたといふものです。斯ういふ父の行ひが少年の私には唯奇異に思はれました。私は父の精神の美しいとか正直なとかを考
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