した。お霜婆は散々《さん/″\》國の方の話をして、豐田のお婆さんや姉さんから私達兄弟のことも聞取りました。御蔭で國への土産話が出來た、それを別れ際まで掻口説《かきくど》きました。他人の家で修業する身には、舊い出入の女も客だと思ひましたから、私はお霜婆の下駄を揃へて置きました。
『まあ、俺の履物まで直して下すつたさうな――』
 と言つて、お霜婆は私の方を見て、ホロリと涙を落しました。
 舊い馴染が歸つて行つた後で、お霜婆の話の中に、『俺が――俺が――』と言つたことは私の耳に殘りました。私の故郷では、目上の者に對しても、女でも『俺』です。
 斯の手紙の序《ついで》に、私は田舍言葉のことをこゝに書きつけませう。一概に田舍言葉と言ひますけれども、鄙びた言葉づかひが柔軟《やはらか》に働いて東京言葉では言ひ表はせないやうな微細な陰影《かげ》までも言ひ表はせるのが有ります。
 私の故郷の方の言葉では大きいといふことを三段に形容することが出來ます。それから助動詞などにも古い言葉の殘つたのが有つて、面白く、細く、しかも簡潔な働きをして居るのに氣がつくことが有ります。田舍言葉と言つても、粗野なばかりでは有りません。
 左樣言へば、都へも寒い雨がやつて來ました。斯の空には御地の山々は雪でせうか。貴女がたは例の炬燵を持ち出したでせうか。

        八

 私は巣の入口のみを貴女に御話して、まだ奧の方はお目に掛けませんでした。豐田さんの住居は二棟の二階建の家屋から出來て居て、それが高い引窓から明りを取るやうにした板敷の廊下で結び着けてありました。中央の廊下から奥の二階へ通ふことも出來、臺所の方へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]ることも出來ました。奧の下座敷が豐田の小父さんや姉さんやお婆さんの居間でした。客でもあると、小父さんは煙草盆を提げて土藏造の内の部屋へ出掛けて來ます。その暗い部屋の外が玄關で、私の机が置いてあるのもそこなれば、私がよく行つた往來の見える窓もそこにありました。斯樣な風に、私の勉強する部屋はいくらか奧の方と離れて居ましたから、そこで私は種々な少年らしい遊戲を考へ出しました。私は國に居てよく木登りをしたやうに、その土藏造の部屋の入口へ兩脚を突張りまして、それを左右の手で支へて、次第に高く登つて行くことを企てました。手を放せば、トンと私は入口の階段の上へ飛び降りることが出來たのです。朝に晩に大人に見つからないやうにしてはよく登りましたが、ある時私の手が滑つて堅い階段のところでひどく背骨を打つたことがありました。しばらくの間私は身動きすることも出來ませんでした。これに懲りて次第にその遊戲も止めるやうに成つて行きました。
 もつと危い遊戲を考へ出したこともあります。それは土藏の二階へ昇る梯子が二段に成つて居た爲に、私は下から逆さに昇つて行くことを企てたのです。これは梯子が足を掛け易く出來て居たからでもありました。しかし斯の危い戲れよりも安全で、もつと少年の私の心を喜ばせたのは、低い梯子から高い梯子へ昇らうとする中途の袋戸棚の上から、逆《さかさ》にでんぐり返しを打つことでした。ある日も人の居ない時を見て、袋戸棚の上へ身體を寢かし、足の方から段々高く持ち上げて見事に疊の上へ立つたと思ひましたら、そこに豐田の小父さんが笑ひながら立つて見て居て、ひどく私は赤面したことが有りました。
 山家育ちの私は、時には小父さんから、叱られるやうな惡戲をもやりました。ある時私は手頃な小刀を得ました。國に居れば鉈《なた》や鎌で立木の枝を拂つたり皮を剥いたりしたやうに、私は唯譯もなくその小刀を試みたくて成りませんでした。で、入口の格子の中に閉める戸へ行つてそれを試みました。大きなフシ穴を一つ刳《く》り拔いて了つた頃に、小父さんが來て見て呆れまして、
『貴樣はもつと悧好《りかう》な奴だと思つたら、存外馬鹿だナ。』
 と言つて叱られました。斯ういふ惡戲をした時でも、小父さんは實に寛大で、私に好く言つて聞かせるだけでした。私は斯の善良な主人から手荒い目などには一度も逢つたことが有りません。それだけ又た少年の心にも深く斯の小父さんを尊敬しました。
 ある日、私は表の方から馳出《かけだ》して來まして、格子を開けて上らうとする拍子に上《あが》り框《がまち》に激しく躓きました。私の身體は飛んで玄關に轉げました。
『馬鹿め、上から下へ轉がり落ちるつてことは有るが、下から上へ轉がり落ちる奴が有るかい。』
 斯う言つて、小父さんは笑ふやうな人でした。
 斯の小父さんは手細工が好きで、銀座の夜店から鋸《のこぎり》、鉋《かんな》の類を買つて來まして閑暇《ひま》な時には種々な物を手造りにしました。大工の用ひるやうな道具箱までも具へて有りました。小父さんの器用なことは天
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