可羞《はづか》しさうにして笑つて、
『知らない。』
と言ひ放ちながら、急に家の方へ馳出《かけだ》して行つて了ひました。
恐らく斯の兒の強情なところは私の血から傳はつたものでせう。しかし私は斯の兒ほど泣き易くはありませんでした。丁度弟の方の子供ぐらゐな年頃のことでした。ある晩、私は遊友達の問屋の子息《むすこ》と喧嘩して、遲くなつて家の方へ歸つて行きました。叱られるなといふことを豫期しながら。果して、家の門を入つて田舍風な小障子のはまつた出入口のところまで行くと、私が問屋の子息を泣かせたことは早や家の方へ知れて居りました。やかましい問屋のお婆さんがそれを言附けに捩込《ねぢこ》んで來たといふことでした。で、私は懲らしめの爲に、そのまゝ庭に立たせられました。薄暗い庭から見ると、玄關の方も裏口の方も皆な戸が閉つて、唯小障子の明いたところだけ燈火《あかり》が射して居る。私は夏梨の樹の下に獨りで震へながら、家のものが皆な爐邊《ろばた》に集つて食事するのを眺めました。日頃默つて居る兄の顏などは、私の仕たことに就いて非常に腹でも立てたやうに、餘計に畏《おそろ》しく見えました。其晩に限つて、誰も救ひに來て呉れるものが有りません。斯の刑罰は子供心にも甘んじて受けなければ成らないやうなものでした。私は皆なの夕飯の終る頃まで、心細く立ち續けました。
斯ういふ時に、私の側へ來て言ひ宥《なだ》めたり、皆なに御詫をして呉れたりしたのは、お牧といふ下婢《をんな》です。目上の兄達が奧の方へ行つた後で、お牧は私の膳を爐邊へ持つて來て勸めて呉れましたが、到頭其晩は食ひませんでした。
私の生れた家では、子供に一人づゝ下婢を附けて養ふ習慣でして、多くは出入のものの娘から取りました。私に附いたお牧は髮結の家の娘でした。理髮店といふものは未だ私の故郷には無かつた頃ですから、お牧の父親が髮結の道具――あの引出の幾つも附いた、鬢着油などのにほひのする、古い汚れた箱を携《さ》げてよく吾家《うち》へ出入したことや、それから彼《あ》の穢い髮結が背後《うしろ》に立つて父の腮《あご》などをゴシ/\とやつたことは、未だに私の眼に着いて居ます。お牧の父親と言へば土地でも有名な穢い男でした。その娘に養はれると言つて、よく私は他《ひと》から調戲《からか》はれたものです。でも、お牧は乳を呑ませないといふばかりで、其他のことは殆ど乳母同樣に私を見て呉れました。
母や祖母などは別として、先づ私の幼い記憶に上つて來るのは斯の女です。私は斯の女の手に抱かれて、奈樣《どん》な百姓の娘が歌ふやうな唄を歌つて聞かされたか、そんなことはよく覺えて居りません。お牧は朴葉飯《ほゝばめし》といふものを造《こしら》へて、庭にあつた廣い朴の木の葉に鹽握飯《しほむすび》を包んで、それを私に呉れたものです。あの氣《いき》の出るやうな、甘《うま》い握飯の味は何時までも忘れられません。青い朴葉の香氣《かをり》も今だに私の鼻の先にあるやうな氣がします。お牧は又、紫蘇《しそ》の葉の漬けたのを筍《たけのこ》の皮に入れて呉れました。私はその三角に包んだ筍の皮が梅酸《うめず》の色に染まるのを樂みにして、よく吸ひました。
『姉さん、何か。姉さん何か。』
と言つて、私の子供は朝から晩まで娘達に菓子をねだつて居ります。どうかすると兄弟とも白い砂糖などを菓子の代りに分けて貰つて居ます。それを見て、私は自分の幼少《ちひさ》い時分に、黒砂糖の塊を舐めたことを思出しました。
私がお牧の背中に負《おぶ》さつて、暗い夜道を通り、寺の境内まで村芝居を見に行つたことは、彼女の記憶から離せないものの一つです。顏見世の晩で、長い柄のついた燭臺に照らして見せる異樣な人の顏、異樣な鬘《かづら》、異樣な衣裳、それを私はお牧の背中から眺めました。初めて見た芝居は、私の眼には唯ところ/″\光つて映つて來るやうなものでした。丁度、眞闇《まつくら》なところに動《ゆら》ぐ不思議な人形でも見るやうに。
これほど親しいお牧では有りましたが、しかし彼女の皹《あかぎれ》の切れた指の皮の裂けたやうな手を食事の時に見るほど、可厭《いと》はしいものも有りませんでした。お牧の指が茶碗の縁に觸ると、もう私は食へませんでした。子供の潔癖は、特に私には酷《はなはだ》しかつたのです。お牧ばかりでは有りません。私の直ぐ上は銀さんといふ兄貴で、この銀さんが洗手盥《てうづだらひ》を使つた後では私は面《かほ》も洗へませんでした。銀さんは又、わざ/\私を嫌がらせようとして、面白半分に盥の中へ唾を吐いて見せたりなどしたものでした。
私の生れた家には太助といふ年をとつた家僕も居りました。この正直な、働くことの好きな、獨身者《ひとりもの》の老爺《ぢいさん》は、まるで自分の子か孫のやうに私を思つて呉れまし
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