た。恐らく太助が私を愛して居たことは、お牧の比では無かつたのでせう。不思議にも、それほど思つて呉れた老爺と、朝晩抱いたり負《おぶ》つたりして呉れたお牧と、何方《どちら》を今でも思出すかといふに、矢張私はお牧の方に言ひ難いなつかしみを感じます。でも私は太助が好きでした。爐邊は廣くて、いつも老爺の坐る場所は上《あが》り端《はな》の方と定《きま》つて居りましたが、そこへ軟かい藁を小屋から運んで來まして、夜遲くまで私の穿く草履などを手造りにして呉れたのも、この太助です。それから大きな百姓らしい手で薪を縛る繩などをゴシ/\と綯《な》ひながら、種々なお伽話や、狢《むじな》の化けて來た話や、畠の野菜を材料《たね》にした謎などを造つて、私に聞かせるのを樂みにしたのも、この太助です。それを聞いて居るうちに私は眠くなつて、老爺の側で寢て了ふことも有りました。
 太助の働く小屋は裏の竹藪の前にありました。可成《かなり》廣い屋敷の内でしたから、そこまで行くには私は梨、林檎などの植ゑてある畠の間を通り、味噌藏の前を過ぎ、お牧がよく水汲に行く大きな井戸について石段を降りますと、その下の方に暗い米藏が有りまして、それに續いて松薪だの松葉の焚附だのを積重ねた小屋が有りました。太助は裏山の方から獨りで左樣いふものを運んで來るのでした。その小屋の内で、一日薪を割る音をさせて居ることも有りました。
 小屋に面して古い池が有りました。棚の上の葡萄の葉は青く淀んだ水に映つて居りました。石垣のところには雪下《ゆきのした》などがあの目《ま》ばたきするやうな白い小さな花を見せて居りました。そこは一方の裏木戸へ續いて、その外に稻荷が祭つてあります。栗の樹が立つて居ます。栗の花が枝から垂下る時分には、銀さんが他の大きな子供と一緒にあの枝から栗蟲を捕つて來たものですが、それを踏み潰すと、緑色の血が流れます。栗蟲の身《からだ》から、銀さん達は強い糸の材料を取つて、魚を釣る道具に造りました。その原料を酢に浸して、小屋の前で細長い糸に引延して乾すところを、私はよく立つて見て居りました。栗の殼《いが》が又、大きく口を開《あ》く頃に成りますと、毎朝私達は裏の方へ馳附《かけつ》けて行つたものです。そして風に落された栗を拾はうとして、樹の下を探し※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたものです。それを人の知らない中に集めて置いて、小屋の前で私に燒いて呉れたり、母屋《おもや》の爐邊の方まで見せに持つて來て呉れたりしたのも、太助でした。
 何かにつけて私はイヂの汚ないやうなことばかり覺えて居ります。けれども、ずつと年をとつた人と同じやうに、少年の私にはそれが一番樂しい欲でした。斯樣なことを私は最初に貴女に御話するからと言つて、それを不作法とも感じません。種々な幼少《をさな》い記憶がそれに繋がつて浮び揚つて來ることは、爭へないのですから。序《ついで》に、太助が小屋から里芋の子を母屋の方へ運んで行きますと、お牧がそれに蕎麥粉を混ぜて、爐の大鍋で煮て、あの皹《あかぎれ》の切れた手で芋燒餅といふものを造《こしら》へて呉れたことも書いて置きませう。芋燒餅は、私の故郷では、樂しい晩秋の朝の食物《くひもの》の一つです。私は冷い大根おろしを附けて、燒きたての熱い蕎麥餅を皆なと一緒に爐邊で食ふのが樂みでした。口をフウ/\言はせて食つて居るうちに、その中から白い芋の子が出て來る時などは、殊に嬉しく思ひました。

        三

 昨日《きのふ》、一昨日《をとゝひ》はこの町にある榊神社の祭禮で、近年にない賑ひでした。町々には山車《だし》、踊屋臺などが造られ、手古舞《てこまひ》まで出るといふ噂のあつた程で、鼻の先の金色に光る獅子の後へは同じ模樣の衣裳を着けた人達が幾十人となく隨いて、手に/\扇を動かし乍ら、初夏の日のあたつた中を揃つて通りました。それ獅子が來た、御輿が來たと言つて、子供等は提灯の下つた家の門を出たり入つたりしました。
『御祭で、どんなに嬉しいのか知れません――』
 と姉さん達は斯の子供等のことを言ひましたが、兄の方は肩に掛けた襷の鈴を鳴らして歸つて來て、後鉢卷などにして貰ひ、黄色い團扇《うちは》を額のところに差して、復た町の方へ飛び出して行くといふ風でした。提灯に蝋燭の火が映る頃から、二人とも足袋跣足《たびはだし》にまで成つて、萬燈《まんどう》を振つて騷ぎ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。
 私も祭らしい日を送りました。町に響く太鼓、舁《かつ》がれて通る俵天王《たるてんわう》、屋臺の上の馬鹿囃《ばかばやし》、野蠻な感じのする舞――すべて、子供の世界の方へ私の心を連れて行くやうな物ばかりでした……
 毎年のやうに私は出して着る袷が二枚あります。母の手織にしたもの
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