で、形見として殘つて居るのは最早それだけです。私は十五年の餘も大切に保存して居ります。それが又、私の持つて居る着物の中で、一番着心地の好い着物なのです。短い袷時に、私はそれを取出すのを樂みにして居りますが、それを着た時は妙に安心して居られるやうな氣もします。その中一枚はあまり見苦しく成つたと言はれて、今年からは寢衣《ねまき》にして着ることにしました。
 私の母は斯うした手織縞をよく丹精したものです。私が子供の時分に着た着物は大概母の織つたものでした。私の生れた家は舊本陣と言つて、街道筋にあつて、ずつと昔は大名などを泊めたのですから、玄關も廣く、その一段上に板の間がありました。そこから廣い部屋々々に續いて居ました。その板の間の片隅に機《はた》が置いてありました。私が表の方から古い大きな門を入つて玄關前の庭に遊んで居りますと、母が障子の影に腰掛けて錯々《せつせ》と梭《をさ》の音をさせたものでした。
 頬の紅い、左の眼の上に黒子《ほくろ》のあつた母のことを言へば、白い髮を切下げて居た祖母《ばゝ》のことも御話しなければ成りません。祖母は相應に名のある家から嫁《とつ》いで來た人で、年はとつても未だシツカリして居りました。尤も私の覺えてからは腰は最早すこし曲つて居りましたが。一體、私は七人の姉弟《きやうだい》のうちで一番の末の弟で、私の直ぐ上が銀さん、それから上に二人姉があつたさうですが、斯の人達は幼少《ちひさ》くて亡くなりましたさうです。その上に兄が二人あつて、一人は母の生家《さと》の方へ養子に參りました。一番|年長《うへ》が姉です。姉は私がまだ極く幼少い時に嫁に行きましたから、殆んど吾家《うち》に居たことは覺えません。長兄の結婚は漸く私が物心づく頃でした。嫂《あによめ》を迎へてから、爐邊は一層賑かで、食事の度に集つて見ると可成大きな家族でした。その頃から私は祖母に隨いて、毎晩隱居所の方へ泊りに行くやうに成りました。そこは井戸に近い二階建の離れ家で、階下《した》は物置やら味噌藏やらに成つて居ました。暗いところを行くのですから、私は祖母と一緒に提灯つけて通ひました。
 私の家では、生活《くらし》に要る物は大概は手造りにしました。野菜を貯へ、果實《このみ》を貯へることなどは、殆んど年中行事のやうに成つて居ました。母は若い嫂を相手にして、小梨の汁などで糸をよく染めました。茶も家で造りました。茶摘といへば日頃出入の家の婆さんまで頼まれて來て、若葉をホイロに掛けて揉む時には男も一緒に手傳ひました。玄關前の庭の横手には古い椿の樹がありましたが、その實から油をも絞りました。私は母や嫂の織つた着物を着、太助の造つた草履を穿いて、少年の時を送つたのです。
 例のお牧に連れられて、映し繪を見に行つた晩のことでした。旅の見世物師が來て、安達《あだち》が原《はら》だの、鍋島の猫騷動などを映して見せ、それでいくらかの木戸錢を取りました。障子に映つた鬼婆、振揚げた出刃庖丁、後ろ手にくくし上げられた娘、それから老女に化けた怪しい猫の幻影《まぼろし》などは、夢のやうな恐怖を誘ひました。家へ戻つて行つても、私は安心しませんでした。
『祖母樣《ばゝさま》、お前さまは眞實《ほんたう》の祖母樣かなし……一寸|背後《うしろ》を向いて見さつせれ……』
『これ、何を馬鹿言ふぞや。』
 母や嫂は側に居て笑ひました。その頃から私は『人浚《ひとさら》ひ』に浚はれて行くといふ恐怖なども感じて、祖母と二人ぎり寂しい隱居所の方へ行く時には、寢床の中に小さくなつて寢たことも有りました。お化より何より、『人浚ひ』が私には一番恐しかつた。それは夜鷹の鳴く日暮方にでも通るもので、一度浚はれたら、兩親の許へ歸つて來ることが出來ないやうにも思はれました。
 すこし見慣れないものが有ると、私は子供心に眼をとめて見ました。そして不思議な恐怖に襲はれることが有りました。太助がよく働いて居た木小屋の前を通り拔けて、一方の裏木戸の外へ出ますと、そこには稻荷が祭つてあります。葉の尖つた柊《ひゝらぎ》、暗い杉、巴丹杏《はたんきやう》などが其邊に茂つて居まして、木戸の横手にある石垣の隅には見上げるほど高い枳殼《からたち》が立つて居ました。あの棘の出た幹の上の方に、ある日私は大きな黒い毛蟲の蝶を見つけました。田舍で荒く育つた私の眼にも、その蝶ばかりは薄氣味の惡いほど大きかつた。そして毒々しい黒い翅を震はせて居ました。私は小石を拾つて投げつけようとしましたが、恐ろしくなつて、そのまゝ母屋の方へ逃げて歸つたことが有りました。
 斯の手紙を書きかけて置いて、私は兄弟の子供を連れながら河岸の方まで歩きに行つて來ました。榊神社の境内まで行くと、兄の方はぷいと腹を立てゝ家の方へ歸つて了ひましたから、私は弟の方だけ連れて、河岸へ出ました
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