二
私の側に今居る兄弟の子供が八歳と六歳になることは貴女に申上げました。彼等|幼少《をさな》いものを眼前《めのまへ》に見る度に、自分等の少年の時と同じやうなことが矢張この子供等にも起りつゝあるだらうか。丁度自分等も斯樣な風であつたらうか。左樣思つて私は獨りで微笑むことが有ります。
私が今住む場所は町の中ですから、夕方になると近所の子供が狹い往來に集ります。路地々々の子供まで飛出して來て馳け※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]る。時には肴屋の亭主が煩《うるさ》がつて往來へ水を撒いて歩いても、そんなことでは納まらない程の騷ぎを始める。吾家《うち》の子供も一緒に成つて日の暮れるのも知らずに遊び※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]ります。夕飯に呼び込まれる頃は、家の内は薄暗い。屋外《そと》から入つて來た弟の方は燈火《あかり》の下に立つて、
『もう晩かい。』
と尋ねるのが癖です。
早く夕飯の濟んだ黄昏時《たそがれどき》のことでした。私は二人の子供を連れて町の方へ歩きに行つたことが有りました。夕空に飛びかふ小さい黒い影を見て、あれは何かと兄の方が尋ねますから、蝙蝠《かうもり》だと教へますと、子供等はめづらしさうに眼を見張りました、瓦斯《ガス》や電燈の點いた町の空に不恰好な翼をひろげたものの方を眺めて居りました。斯の子供等の眼に映るやうな都會の賑やかな灯――左樣いふ類《たぐひ》の光輝《かゞやき》は私の幼少《ちひさ》い頃には全く知らないものでした。夕方と言へば、私は遠い山の彼方に燃えるチラ/\した幽《かす》かな不思議な火などを望みました。それは狐火だといふことでした。夜鷹と言つて、夕方から飛出す鴉ほどの大きさの醜い鳥が、よく私達の頭の上を飛び※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。それが私の子供の時を送つた故郷の方の空でした。
私は自分の少年時代のことを御話する序《ついで》に、眼前《めのまへ》に居る子供等のことも貴方に書き送らうと思ひます。私達が忘れて居て、平素《ふだん》思出したことも無いやうなことまで胸に浮ばせるのは、この子供等です。遠く過去つた記憶を辿つて見ると、私達の世界は朦朧としたもので、五歳《いつつ》の時には斯ういふことが有つた、六歳《むつつ》の時には彼樣《あゝ》いふことが有つた、とは言へないやうな氣もします。種々な相違した時のことが雜然《ごちや/\》一緒に成つて浮び揚つて來ます。そのくせ、極く小さな事で、忘れないで居るやうなことは、それが昨日あつたと言ふよりはつい今日あつたことのやうに、明瞭《はつきり》と、しかも微細な點まで、實に活々と感ぜられるのですが……
ある日の夕方も、私は弟の方の子供の手を引きながら散歩に出掛けました。斯の兒はナカ/\理窟屋で、子供のやうな顏附をして居ないといふところから、家に居る姉さん達から『こどな』といふ綽名《あだな》を頂戴して居ます。大人と子供の混血兒《あひのこ》といふ意味です。種々な問を起したがる年頃で、それは何處から覺えて來るともなく、『隨分滑稽だ』とか、『一體全體、譯は何だい』とか、柄にも無いやうな口眞似をしては皆なを笑はせる。往來を歩いて居ても、直に物が眼につくといふ風です。
『ア、一本の脚の人が彼樣《あん》なところを歩いてら。』
と二本の杖に身を支へながら行く人の後姿を見つけて、それを私に指して見せました。
電車通りの向側には、よく玩具を買ひに行く店があります。子供はその店の方へ行けと言つて、駄々をこねて聞入れませんから、私も持餘して、
『買つて、買つてツて……買つてばかり居るぢやないか。そんなに父さんは金錢《おあし》がありやしないよ。』
漸くのことで子供を言ひ賺《すか》しまして、それから橋の畔《たもと》の方へ連れて行きました。そこに煙草と菓子とを賣る小さな店があります。小さな硝子張《ガラスばり》の箱に鯛などの形した干菓子の入つたのが有りましたから、それを二箱買つて、一つを子供の手に握らせると、それで機嫌が直つて、私の行く方へ隨いて來ました。軟かな五月の空氣の中で、しばらく私は町の角に佇立《たゝず》んで、暮れ行く空を眺めて居りました。
『父さん、何してるの――あの電燈《でんき》を勘定してるの。』
『アヽ。』
『そんなこと、ツマラないや。』
子供に引張られて、復た私は歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。
『最早《もう》御飯だ。早くお家へ歸らう。』
と言つて、吾家近くまで子供を連れて歸りかけた頃、何を斯の兒は思ひついたか、しきりに御飯と御膳の相違《ちがひ》を比べ始めました。父のが御膳で、自分のが御飯だとも言つて見るやうでした。
『御飯と御膳と違ふのかい。』
と私が笑ひますと、子供は
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