サシミでしたから……
姉と一緒に居た間、私は殆んど忿怒《いかり》といふものも知らなかつたほど自分の少年らしい性質が延びて行つたことを感じます。甥の下にはまだ頑是《ぐわんぜ》ない年頃の姪が一人ありました。その姪は姉が東京に家を持つてから生れた子供です。あの日、私が學校から歸つて來て自分の机のところへ行つて見ますと大事に/\して置いた新しい洋綴の帳面には目茶苦茶に何か書き散してありました。斯の亂暴な行ひは直に小さな姪のいたづらと知れましたが、そのために自分の忿怒《いかり》を奈何《どう》することも出來ませんでした。私はその帳面を引裂いて了ひました。口惜しかつたと思つたことは、その時ぐらゐのものです。一體に姉は清潔好《きれいず》きでしたから、私は姉を悦ばせようと思つて表や庭の掃除をよくやりました。ある時、二階の硝子窓の外にある露臺へ夏の雨が來ました。私はその雨降の中へ出て、汚れたトタンの上を洗つて、姉を悦ばせたことも有りました。どうかすると姉は夫や子供と共に寢室を離れないで居る朝などには、早起の祖母さんが階下《した》でブツ/\言ひます。さういふ時に、姉を呼び起しに行くのは私の役※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りでした。
姉の家族が故郷へ向けて出發した日のことは、まだいくらか私の眼にあります。白い髮の祖母さんから、子供まで、皆な國まで買切の人力車《くるま》に乘つて出掛けました。姉の居た家には鷲津さんが入ることに成りました。で、私は親身の姉の手から『鷲津の姉さん』と呼ぶ人の手に渡されたのです。
鷲津さんの家族はたつた親子二人ぎりでした。禿頭に細いチヨン髷を結つて居た老爺《おぢい》さんと、その娘にあたる獨身の姉さんと。斯の老爺さんは私達の隣國の舊藩士で、過去つた時代には相應の高い地位に居たとやら。多藝な人で、和歌の添削などをするかたはら、その家へ移つて來てからは碁會所の看板を掛けました。鷲津の姉さんはまた女でも可成に碁の打てる人でしたから、部屋々々に毛氈《まうせん》などを敷き、重い碁盤を置き、客が來ればその相手に成りました。
一人東京に殘されました少年の私の身に取つては、斯の同じ家の内が全く別の世界のやうに成りました。姉は私のことを鷲津さんによく頼んで置いて歸つて行つたのですが、最早私の周圍には以前のやうな注意を拂つて呉れる人は居りませんでした。私はそれを感じました。のみならず、私は周圍の冷淡な人達に對して自分の少年らしい感情を隱すやうに成りました。たま/\學校から歸つて來て見ると、老爺さんは鏡に向つて眉間《みけん》の瘤《こぶ》を氣にして居ます。なんでも其瘤は非常に大きなニキビの塊だといふことでした。どうして、年は取つてもなか/\の洒落ものでしたから、到頭老爺さんは剃刀を取出して、自分でそのニキビの塊を切りました。そんなことを見る度に、私は斯の年甲斐のない老人に對してさげすみの念を抱きました。
斯ういふ家庭の空氣でしたから、自然と私の心は屋外《そと》の方へ向ひました。私も早や東京へ出たての時のやうに髮などを長く垂れ下げて、黄八丈の羽織をヨソイキに着るやうな少年ではありませんでした。毎朝數寄屋河岸へ通ふ途中で一緒に成る男や女の學校友達の顏は、私には親しいものと成つて來ました。その頃普通教育は男も女も合併の時分で、私は一方に炭屋の子息《むすこ》さんと席を並べ、一方には時計屋の娘やある官吏の娘などと並んで腰掛けました。斯の官吏の娘の家は私達が住むと同じ町の並びにありました。姉妹《きやうだい》で學校へ通つて居ました。何がなしに私はその家の前を通るのを樂みにして、私が居る家と同じ型の圓柱、同じ型の窓を望んでは、そこに同級の女の友達が住むことを懷しみました。その頃は又、學級の編成の都合かして、生徒を上の組へ飛ばせるといふことが有りました。その時、私は炭屋の子息さんと時計屋の娘と三人で上の組に編《く》み入れられましたが、官吏の娘だけは元の組に殘りました。休みの時間に、時計屋の娘が先生の前に來て、自分一人昇級するのをブツ/\言ふものが有ると言つて、訴へたことを覺えて居ます。私は氣の昂《たかぶ》つた時計屋の娘よりも、シヨゲた官吏の娘の方を可哀さうだと思つたことも有りました。
鷲津の姉さんは色の淺黒い、瘠ぎすな、男性的の婦人でそれに驚くほど氣の短い性質を有つて居ました。その性急《せつかち》なことは、鍋に仕掛けた芋でも人參でも十分煮えるのを待つて居られないといふ程でした。早く煮て、早く食つて、早く膳を片附けて了ひたい……それが姉さんの癖でしたから、私も學校の方へ氣が急《せ》かれる時などは、生煮《なまにえ》の物でも何でもサツサと掻込んで、成るべく早いことをやりました。それでも姉さんには急き立てられました。そんな風にして私は一年ばかりも
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