に切つた鐵葉《ブリキ》の片《きれ》に紐を着けまして、食事の度に私に掛けさせることにしたのです。
『御飯!』
といふ聲を聞くと、私は客があるか無いかを第一に思ひました。姉の家の人達は兎も角も、知らない客の前でブリキを自分の首に掛けるほどキマリの惡いことは有りませんでした。全く、ブリキの前垂には私も弱らせられました。でもその御蔭で、カチリと茶碗の音がする度に自分でも氣が着いて、着物を汚す癖は直つて行きました。
姉の夫といふは背の隆い、立派な威嚴のある人でした。國から出て來て、一時は大藏省の官吏にも成りました。斯の人と兄とは極く親しい間柄で、私のことも親身の弟のやうに見て呉れ、私のために數寄屋河岸にある小學校を選んで呉れました。斯の人は又、鷹揚に腮《あご》を撫でながら私を前に置いて論語の素讀を授けて呉れたり、閑暇《ひま》な時には東京の町々だの公園だのを見せに連れて歩いて呉れました。私は未だに斯の人が當時|流行《はや》つた獵虎《らつこ》の帽子を冠つた紳士らしい風采を覺えて居ます。それから觀兵式の日に連れられて行つて、初めて樽柿といふものを買つて宛行《あてが》はれたことなどを覺えて居ます。その頃のことを思出すと海の見える座敷で海苔の香氣《にほひ》を嗅いだことが私の幼い記憶に浮び揚つて來ます。なんでも其日は姉の家のものが皆な揃つて外出して、私はめづらしい處で一緒に食事をしたやうに思ひますが、それが品川邊の料理屋であつたか何處であつたかは、よく覺えません。唯海苔の香氣の記憶だけ、しかも鼻の先へ匂つて來るやうに殘つて居ます。そんな風にして私は諸方《はう/″\》へ連れられて行きました。
姉夫婦の傍には私は一年あまりしか居りませんでしたが、しかしその間に受けた愛情は少年の私の心に深く刻み着けられました。それからずつと後に成つて、姉の夫の身の上には種々な變化が起り、その行ひには烈しい非難を受けるやうな事もありました。さういふ中でも、猶私が周圍の人のやうには姉の夫を考へて居なかつたといふは、全く斯の少年の時に受けた温い深切の爲で――丁度、それが一點の燈火《ともしび》の如くに私の心の奧に燃えて居たからであります。
素朴な私の田舍の家と違ひ、姉の家にはまた別の空氣がありました。そこの祖母《おばあ》さんは名古屋風の趣味を持つた人で、綺麗に片附けた下座敷へ琴を取出して時々なぐさみに掻鳴しました。甥は私よりは三つも下の少年でしたが、謠曲《うたひ》の文句などを諳記して居て、斯の祖母さんの側でよく歌ひました。
二階座敷で時折樂しい酒宴《さかもり》のあつたことも、客を款待《もてな》すことの好きな姉の夫の氣風をあらはして居りました。同じ銀座の町の近くには、矢張同郷の豐田さんといふ人が住んで居て、折につけて呼ばれて來ました。その使に行くのが何時でも私でした。ゆつくり酒を酌みかはすといふ夜などは、豐田さんは興に乘つて歌ひ出すことが有りました。いかめしい顏附に似合はない豐田さんの洒落《しやれ》は皆なを笑はせました。姉の夫も清《すゞ》しい好い音聲で故郷の方の俗謠などを歌ひましたが、その聲には私は聞き恍《ほ》れる位でした。
斯うして寛濶な家庭の中でも、姉は物のキマリの好いことを悦んでそれを私に話して聞かせたものです。例へば、日曜毎に訪ねて來る同郷の青年があるとか、その青年が甥のところへ買つて持つて來るものは鹽煎餅と定つて居るとか、それを缺かしたことが無いとか、そんなことまで姉の心を悦ばせました。
銀さんと私とは姉の家から同じ小學校へ通ひましたが一年ばかり經つ間《うち》に銀さんの方は學校を退《ひ》いて了《しまひ》ました。銀さんは學問よりも商業で身を立てるやうにと姉夫婦から説き勸められて、日本橋のある紙問屋へ奉公に行くことに成りました。國から二番目の兄に養父が上京した節、銀さんも御店《おたな》の方から暇を貰つて逢ひに來たことが有りました。その時は皆な揃つて記念の寫眞を撮りました。その中で銀さん一人は商人らしい前垂掛で撮れて居ます。
姉が年寄から子供まで連れて夫と一緒に歸國する前には、種々なことが有りました。ある日、私は姉に言ひ附けられて、今迄行つたことの無い家へ使に出掛けたことを覺えて居ます。姉は祖母さんに内證で、箪笥の中から自分の着物を取出して風呂敷包にして私に背負はせました。私の行つた先は店頭《みせさき》に暗い暖簾《のれん》の掛つた家です。番頭が居まして、私が背負つて行つた着物を一枚々々ひろげて見て、通ひ帳の中へ御金を入れて私に渡しました。私は子供心にもいくらか斯の意味を悟りました。姉のところへ引返してから、斯ういふ使はもう御免だと言つて、姉を笑はせたことが有りました。さういふ中でも、姉は祖母さんの膳にだけ新しいオサシミをつけました。祖母さんの好きな物は何よりオ
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