鳴らす喇叭《らつぱ》と馬を勵ます聲と……激しく動搖《ゆす》れる私達の身體とがあるばかりでした。
 狹い車の上で復た日が暮れました。暗い夜の道を後に殘しては私達は乘りつゞけに乘つて行きました。斯の馬車の旅で私達は一人の女の客とも道連に成りました。矢張東京まで行く客で、故郷に殘して置いて來た私の母などよりはずつと若い人でしたが、私達の村にでも居さうな、田舍風な婦人ではありました。旅の包の中から菓子を取出して、それを紙包にして私に呉れたりなどしました。終《しまひ》には私も斯の小母さんのやうな人に慣れて、その膝の上に抱かれました。そして馬車に搖られて眠く成つて來ると、そのまゝ寢て了つたことも有りました。
『追剥だ。追剥だ。』
 といふ聲を聞きつけて、急に私は眼を覺ましました。馬車が何處を通るのか、皆目それは私には解りませんでしたが、闇に振る馬丁《べつたう》の烈しい鞭の音と、尋常《たゞ》ならぬ車の上の人達の樣子とで、賊といふことだけは知れました。馬車が疾驅してその場所を通過ぎた後で、氣の荒い馬丁は手綱をゆるめて、賊が馬の脚へ來て掛らうとしたとか、斯の邊の夜道は物騷だとか、確かに自分の一鞭は手答へがあつたとか、兄達に話し聞かせて笑ひました。復た馬車は暗黒《やみ》の中を衝いて進みましたが、それが夜道へ響けて可恐《おそろ》しい音をさせました。
 夜が明けてから、私達は田舍町の中を乘つて通りました。高い竹梯子の上で宙乘をする消防夫の姿が馬車の上から見えました。そこは上州の松井田でした。
 烏川を越した時の記憶は未だによく殘つて居ます。私達は馬車を降りまして、皆な歩いて渡りました。あの邊の廣濶《ひろ/″\》とした白い光つた空は、まだ私の眼にあります。客だけ下して置いて、河原から水の中へ引き入れた馬車の音を、まだ私は聞くことが出來るやうな氣がして居ます。
 斯の旅はすつかりで矢張七日ほどかゝりました。私は馬車に乘つたまゝ半分夢のやうに東京へ入りました。その馬車が着いたところは萬世橋でしたが、あの頃の廣小路のさまは殆んど尋ねることも出來ないほど變つて了ひました。今でも寄席や旅人宿は殘つて居ます。あの並びに馬車の着くところが有りまして、その前の並木の陰で私達は車から下りたかと思ひます。

        六

 落着く先は姉の家でした。長兄に引連れられて山の中から出て來た私達兄弟の少年は、はじめて大きな都會の空氣に觸れ、日頃故郷の方でよく噂の出る姉とも一緒に成ることが出來たのです。前にも御話しました通り、姉は私が覺えの無いほど極く幼少《ちひさ》な時分に嫁入した人でした。
 田舍者が多勢で押掛けて來た姉の家は、銀座の裏側にあたる閑靜な町の角にあつて、灰色な圓柱の並んだ、古風な煉瓦造りの一つでした。二階には四間ばかりの部屋がありました。その一室《ひとま》の硝子窓《ガラスまど》から町の裏側の屋根だの物干だのの見えるところが私達兄弟の勉強部屋によからうと言はれて、そこで私は銀さんと一緒に新規な机を並べ、夜はその部屋で二人枕を並べて寢ました。田舍に居た頃とは違ひ、こゝでは茶の出る時間も午後と定つて居て、甥と一緒に茶うけの豆せんべいなどを買ひに行き、廣い爐邊でノンキに食事をしつけたものが今度は姉の家の祖母《おばあ》さんや姉夫婦の側にかしこまつて、銀さんと御取膳で食ふことに成りました。
『どうだ、是がオサシミだ。』
 と姉に言はれて、私は初めてオサシミといふものを口に入れて見たことを覺えて居ます。姉が馳走振に取つて呉れた新鮮な魚肉よりも、故郷の方で食べ慣れた鹽辛い鮭の方が私の口に適《あ》ひました。一年に一度づゝ年取の晩の膳についた鹽鰤《しほぶり》の味などは私には忘れられないものでした。
 その頃の姉はまだ若く見える人で、物の言ひ方なども、ハキ/\として居て、私の知らないことは深切に教へて呉れ、萬事につけて私をいたはつて呉れました。斯の愛情は少年の私には難有いものでした。私の故郷の習慣で、他の朋輩を呼ぶには『わりや』と言ひ、自分のことは奈樣《どん》な目上の人の前でも、『おれ』でしたが、その時都會の少年のやうに言葉遣ひを習ひ、『君』とか『僕』とかいふ言葉も姉からをそはりました。
 姉が私の爲に種々と注意をして呉れたことは、次の一例を御話しただけで解らうと思ひます。子供の時分に私はよく鼻液《はな》が出ました。それを兩方の袖口で拭きましたから何時でも私の着物には鼻液が干乾《ひから》び着いて光つて居りました。そればかりでなく、着物の胸のあたりをも汚したものです。姉はそれを見て取つて、私が食事の時に茶碗を胸に當てることは止せと言ひましたが、自然とついた癖は直さうと思つても容易に直りませんでした。何時の間にか私の茶碗は胸のところに當つて居ました。そこで姉は一計を案出しました。四角
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